小浜町 小濱神社 1679年島原藩主が社殿を再興
小浜町から雲仙岳へ登る道の近くにある。今は裏道のようだが、昔は本通りだったのだろう。
小浜の名前がついた神社なので、当然この地域のナンバーワンだ。
神社は新しく広い。
土俵、龍の天井絵、義人玉垣額之助関頌徳碑など、見どころも多い。
小浜の温泉は「肥前風土記」(713年)にも記されている古湯で1900年代から湯治場として利用されるようになった。ウィキペディア
肥前風土記に「高来の峰の西南より、温泉の噴出するのがみゆ」と書かれていたとある。
しかし、他の資料には、肥前風土記には雲仙と千々石のことは書かれているが、小浜の名前は出ていない。
なのでウィキペディアの高来の峰の西南とは、小浜ではなく雲仙の温泉のことだと思う。
また、小浜の温泉は海中または海岸の岩の間から湧いている温泉だったので、住民の人たちも知らなかったようだ。
1496年、有馬家が台頭して島原に原城をたて、この時代から小浜も権力者の支配を受けるようになった。それまでは、地域の豪族たちが入り乱れての戦闘状態だったのである。
小浜の温泉が湯治湯として利用されるようになったのは徳川時代からのようである。明治以降、温泉鉄道、小浜鉄道が開通し、小浜は賑わったが、その後は紆余曲折が有る。
小濱神社は城跡に建てられた。その歴史の流れは雲仙市のホームページに有る。
海の温泉の小浜は、大治の頃(1126年)肥前権守藤原幸通の子、日向太郎通良の弟某氏が小浜氏を名乗りここを居城と定め、保元元年(1156年)高来の郡は鎮西八郎為朝の占有するところとなり、小浜城もそれに属していました。小浜という地は、もとは北村にあり、北村の大浜に対して「こはま」と呼んでいたようで、小浜に勅使が着かれたことからはじまったようです。雲仙市のホームページより。
http://netsrv.kumamoto-net.ne.jp/confirm/wwwtest.city.unzen.nagasaki.jp/kiji0031945/index.html
「鎮西八郎為朝の占有するところとなり、小浜城もそれに属していました。」との事。あの伝説の鎮西八郎為朝が関わっていたとは思わなかった。
小濱神社について 公式ホームページより抜粋
小浜温泉郷鎮座 御由緒
勧請年歴不詳でありますが、古来「湯の神」と称して祀られました。
延宝7年(1679)秋、時の島原藩主 松平忠房公の命により社殿を再興、「小濱大明神」として祀られました。また、劍柄神社は同時に社殿を造営されて「劍柄(たかひのみや)」と称しました。
後に両神社は小濱神社・劔柄神社と名称を改めて産土神として崇敬されてきました。
両社はいずれも小浜温泉郷の中心に鎮座してきましたが、諸般の事情により平成7年秋、両神社を合併し、劍柄神社の地に新しく社殿を建立、名称を小濱神社として合祀しました。本殿内には小濱社・劍柄社とも古来の神殿をそのまま並べて祀られています。
小濱社 大己貴命(おおなむちのみこと) 少彦名命(すくなひこなのみこと)
劔柄社 武甕槌命(たけみかづちのみこと)大己貴命は別名大国主命といわれ農業の始祖、国家鎮護の神と崇められました。少彦名命は医薬術の神となり、この二柱の神が力を合わせて国造りをされました。
また、温泉の力により庶民の病を癒したことから温泉の神様として崇敬されています。武甕槌命は武道(相撲)の神、国土鎮護の神として崇敬されています。龍の天井絵
拝殿の天井には一夜で描かれたという龍の絵があります。小浜神社(平成24年8月19日)
1679年秋、時の島原藩主 松平忠房公の命により社殿を小濱大明神として再興とある。
劍柄神社は同時に社殿を造営されて「劍柄(たかひのみや)」となる。
現在は境内に纏めて置かれている神額があり、「剱柄宮」「剱柄神社」「剱柄宮」と書かれている。
本庄剣柄(けんのつか)稲荷神社というのが、宮崎県東諸県郡国富町にある。そこには通称「剣柄古墳」と呼ばれる古墳が有る。
誰の墓なのかは不明だが、剣柄(けんのつか)とは日本武尊が熊襲武を刺した短刀の事を言う。
まあ、神話の宝庫、宮崎なら話がわかるが、なぜ小浜に「剱柄神社」があったのかわからない。剱柄神社は干拓堤防道路付近にも有る。
小濱大明神は小浜の氏神として、新規に祀り直し、剱柄神社は古代より、ヤマトタケルの言い伝えがあったのかもしれない。
私が思うに、剱柄神社の方が格式も上だと思うし、古代、ヤマトタケルが小浜まで来たかもしれないし、小浜と熊襲の川上タケルとの間に、なにか関係があったのかもと妄想している。
現在の小浜神社は立派に改築されて、きれいな神社である。
地域のシンボルとしての作られた神社というのも有る。
これもまた神社の姿の一面だと思う。