脇岬神社 けんか祭りの謎

 

長崎県長崎市脇岬町1944-1 脇岬神社

脇岬神社

一の鳥居には妙現宮と書かれている。

祭神は國常立神(クニトコタチノカミ)、伊邪那岐、伊邪那美尊と神社のHPに載っている。

國常立神(クニトコタチノカミ)は『古事記』において神世七代の最初の神とされ、別天津神の最後の天之常立神(あめのとこたちのかみ)の次に現れた神で、独神であり、姿を現さなかったと記される。
『日本書紀』本文では天地開闢の際に出現した最初の神としており、「純男(陽気のみを受けて生まれた神で、全く陰気を受けない純粋な男性)」の神であると記している。

ウィキペディア

 

妙現宮とあるが、おそらく妙見宮の事だとおもう。そうすると、一般的には祭神は、天之御中主神、北極星である。

天之御中主神は『古事記』では神々の中で最初に登場する神であり、別天津神にして造化三神の一柱である。つまり日本最初の神様のことなので、祭神からみても妙見宮だと思える。

ここは喧嘩祭りで有名だそうだ。

いろんなホームページに似たような解説が多数載っている。

長崎県の最南端にある長崎市脇岬町では、無病息災を祈願する八坂神社の祭り「脇岬祇園祭」が8月初旬の土日に行われています。
祭りでは神輿を大名行列が先導し、初日はお下り、2日目にはお上りが行われます。
笛や太鼓のお囃子が行列を盛り上げ、所々で挟箱という道具の受け渡しの所作を演じる儀式「下馬」が見られます。
脇岬祇園祭は別名「けんか祭り」と呼ばれており、祭り当番を引き継ぐ「受け渡し」(夕方5時頃)が行われる際に始まる壮絶な殴り合いを見に、近年では県外からも見物客が訪れています。

https://matsuri-no-hi.com/matsuri/41221

 

八坂神社(お下り)→脇岬神社→八坂神社(お上り)はよく分かるが、肝心の八坂神社がわからなかったが、下記のホームページに八坂神社が写っていて、初めてお目にすることができた。

正しい休日の過ごし方

https://ssiimm.livedoor.biz/archives/51956802.html

脇岬神社

脇岬神社

脇岬神社 神殿

脇岬神社神殿 なんだかとても立派そう

この祭りには多くの謎がある。

まずひとつ目の謎は、なぜ脇岬に祇園祭があるのかということだ。

この事はどのHPにも解説らしきものはなかった。

脇岬祇園祭の様子を見れば、明らかに参勤交代の大名行列である。

脇岬は野母半島の先端部分である。この近くには参勤交代をする大名はいない。

長崎市は天領であり、特殊な街だ。

ただ、長崎から諫早、佐賀方面には浮立という大名行列を表した祭りがある。

その祭りがこの場所に来たようである。

だけど、誰がこの祭りを脇岬に持ってきたのだろうか。

祇園祭は京都の八坂神社が総本山で、全国に沢山の末社があり、野母崎もその中の一つだろう。

脇岬神社

脇岬神社

けんか祭りの由来も不思議である。

解説では、祭り当番を引き継ぐ「受け渡し」が行われる際に始まる壮絶な殴り合いをするという。

祭りの当番町になるのを嫌がるので殴り合いになるというという筋も不思議だ。

祇園信仰の原型は、行疫神の荒魂を鎮め、和魂に変えることで逆に守護神として味方につけ、疫鬼と闘わせることで疫病を防ごうとしたとある。

祇園祭の祭神は、牛頭天王(素戔嗚尊)だ。スサノウは暴れん坊で、高天原で大暴れをして、追放されている。

これが祭りの最中に喧嘩が演出される理由かもしれない。

脇岬は京都の文化があるのか

これも謎である。

長崎半島(野母崎半島)の殿隠山の山裾に、和銅2年(709)、行基(ぎょうき)菩薩開祖の観音禅寺という曹洞宗の寺がある。(略) なぜ野母崎半島の先端にこんなりっぱな寺院があるのかというと、昔からこの港は重要な貿易港で中国へ渡る要地だったからだ。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0612/index1.html

 

野母崎には浦祭りというのがある。

奉納踊りは「鉾舞(ほこまい)」「モッセー」「中老(ちゅうろう)」「トノギャン」で構成されている。

「中老」の催馬楽(さいばら)の歌 「催馬楽」は鎌倉時代から伝わる宮廷歌謡の一つ。その中の代表的な歌が「ちゅうろう(中老)」で、「文書き」など18種類があります。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/uta/050729/

 

野母崎に宮廷歌謡が有るのである。

八坂神社、祇園祭、大名行列の奉納、宮廷歌謡。

これらの事を説明できる話に、「みさき観音詣」というのがある。

江戸時代、脇岬神社にある千手観音の信仰のため、長崎市内から歩いてこの脇岬神社にやって来たとある。

かなり大勢の人達がやってきたらしく、その中には京都の八坂神社関係の人がいたのかも知れない。

その人達が、脇岬に八坂神社や脇岬神社を建てたのかもと想像する。

なんの根拠もないのだが、それしか思いつかないのだ。

江戸時代、貿易で日本にやってきた唐船は風よけの港脇岬に停泊をしていた。

なので、この港周りは唐人たちで栄えていたのだろう。

さらに脇岬神社のみさき観音への巡礼者の人達もいる。

結構、過去の脇岬は賑わっていたと思える。

謎の解決にはならないが、昔の脇岬の姿がもっとわかればと思う。

脇岬神社

脇岬神社

 

脇岬神社 けんか祭りの謎” に対して2件のコメントがあります。

  1. NAKA より:

    脇岬神社 ご先祖さんが小さい祠を建て 祖父もしばらくお守りしていたのですが、理由あって 端島の方へ 何分 歴史を表にしてはいけない理由があるみたいで、隠れた存在みたいです。只 詳しく話も聞かされていないのですが、カミと呼ばれていたそうです。コメント残すのもどうかと思いましたが、お役に立てればと

    1. artworks より:

      コメントありがとうございます。野母崎はいろいろ謎めいています。情報ありがとうございました。

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