亀山八幡宮 佐世保の神功皇后伝説
佐世保市の繁華街の近くにある。
立派な広い駐車場もあり、佐世保市で一番大きい神社ということである。
市内で唯一の別表神社ということで、諏訪神社 長崎県護国神社と同格。
由緒
神社に伝わる由緒によれば、天武天皇白鳳4年(白雉650年~654年)に神託により宇佐神宮から分霊を迎えたのが始まりという。
祭神は応神天皇、仲哀天皇、 神功皇后、 仁徳天皇、保食の神。
佐世保港には神宮皇后伝説があり、最強のメンバーということだ。
佐世保は古代中世には肥前国に属し松浦郡と彼杵郡という地域だった。
平安時代に武辺胤明と相神浦氏がの名前があり、佐世保の相浦周辺を開拓する。
鎌倉時代になると松浦党が北松浦半島周辺に勢力を広げ、室町時代になると宗家松浦氏が勢力を伸ばす。
市域中心部に拠った者が佐世保城を築き、佐世保姓を名乗った。
古文書には佐世保城主として「佐世保清」「佐世保諫」等の名が残っているという。
佐世保の意味は狭い川瀬を意味する「狭瀬(させ)」に、保は中世の荘園公領制の国衙との関わりで成立した「保」がついたと推定されている。
戦国時代には平戸松浦氏・宗家松浦氏・大村氏等が激しく争いを繰り広げ、最終的には現市域の大半が平戸松浦氏の支配に帰し、平戸藩としてそのまま廃藩置県に至った。
海軍の街
佐世保は明治初期まで、人口約4000人の半農半漁一寒村だった。
明治22年に旧海軍の鎮守府が設置されると、明治35年に村から一挙に市になってしまう。
ここに日本海軍の鎮守府や佐世保海軍が設置され、造船および軍港の町・軍都として発展した。
そんな街の軍神として、八幡神社は整備されたのだ。
当然護國神社的な性格も強く、慰霊碑もあり、境内には亀山稲荷神社他合わせて7社の境内社がある。
この地に、もともと八幡神社があったかは不明だが、白鳳4年(白雉650年~654年)に神託により宇佐神宮から分霊を迎えたのが始まりというのは眉唾だと感じる。
しかし、古代の歴史もある。
肥前国風土記によれば、現在の早岐(はいき)付近に速津媛(はやつひめ)土蜘蛛と呼ばれる土着豪族があり、景行天皇の命により討伐されたという。
また、神功皇后が新羅を征伐するためこの郷に来たとき、船を郷の東北の海につないでおいたところ、船をつなぐ杭が、磯になってしまった。高さ六十メートル、周囲三十メートル余り、岸から一キロ余り離れた、巨大なもので、高く険しく、草木が生えなかった。さらに、従者の船は風に遭って漂い沈んでしまった。ここに、鬱比表麻呂という名の土蜘蛛がいて、その船を救った。よって救(すくひ)の郷という。周賀の郷というのは、これが訛ったものである、という地名由来がある。
古代土蜘蛛一覧(肥前国風土記)
http://jyashin.net/evilshrine/gods/tsuchigumo_shrine/tsuchigumo_ancient_02.html
この救(すくひ)の郷だが、巣食という港が西海橋、横瀬浦付近に現在もある。
なので神宮皇后は実際にこの地にやってきたかも知れないという可能性は残されているのだ。
佐世保は「海軍の街」であり、現在も「米軍、自衛隊の街」でもある。
しかし、古代の歴史もあり、権力者によって上書きされた神々ばかりのようだが、土蜘蛛の神の残り香があるような気もする。