飽ノ浦の伊勢宮神社
平成11年(1999)に完成した飽の浦トンネルの脇に飽ノ浦公園がある。
春には桜が満開で、飽の浦小学校帰りの小学生達がたむろしているのが微笑ましい。
公園の入口には荒木宗太郎宅跡の案内板がある。
荒木宗太郎とは16世紀末期の朱印貿易商で大成功を治めた熊本人である。
1619年に安南国(ベトナム)の国王の外戚(母方の親戚)の娘の王加久戸売(ワウカクトメ)を妻にもらい、この飽の浦の地に大邸宅を構えた。
この時代に国際結婚は凄い。
また安南国(ベトナム)国王の外戚なので、荒木氏も気を使ったらしく、長崎入りの際、大波止から浜町あたりまで大変豪華で派手な行列をなしたといわれている。
お嫁さんの王加久戸売(ワウカクトメ)は、安南語の王女の意味である阿娘(アニヨン)なので、皆からアニオーさんと呼ばれていたことも有名である。
長崎とベトナムはこの時代から縁がある。
そんな大商人になった荒木宗太郎が、なぜ飽の浦に豪邸を建てたかといえば、飽の浦が一種の観光地だったからである。
飽の浦や岩瀬道には、奇岩が多く絶景だったようで、成功者が住む家としてロケーションが良かった事と、旭町には波止場があり、また水の浦は水が豊富で、船を操る商人にとって稲佐、水の浦、飽の浦は都合が良かったからだと思う。
また飽の浦という地名だが、空きの浦から飽の浦になったのではないかという推理を書いた。興味のある方はどうぞ。
長崎 飽の浦(あくのうら)の謎 時間探偵
https://artworks-inter.net/ebook/?p=3919
この公園の山側に伊勢宮(いせのみや)神社というのがある。
公園の敷地内の一の鳥居には伊勢宮神社と記された鳥居があるが、神社の前の鳥居には大日社と書いている。
また拝殿も神社らしくなく、閉まっている扉から中を除くと、お神輿が置かれている。
あまりにも殺風景な佇まいには、やはり違和感を覚えてしまう。
しかし、これには理由がある。
大日とは大日如来の事であり、真言密教の中で最高位の仏様である。日本に仏教が伝わってきた時、日本古来の神様と、どうバランスをとるかを考えられていた。
ただし日本人には、神社を捨てて、仏教に専念すると言った感覚はなかった。「和を以て貴しとなす」が日本の心だったからだ。そして、合体させる技を編み出した。
それが神仏混淆である。
なので、大日如来という仏様を本尊とした、神社ができたというわけである。しかし、明治になると王政復古となり、この混ざりあった宗教をちゃんと分け、外国から来た仏教を破棄する廃仏毀釈運動が盛んになってしまった。
そこで仏である大日如来を、天照大神としたのである。かなり強引だが、それがまかりとっていた時代である。
そして伊勢宮神社となったのである。
ただ長崎は弘法大師信仰の盛んな街であり、稲佐や水の浦には、坂の途中に立派な大師堂がたくさんある場所柄である。
大日社の鳥居を壊さなかったのは、弘法大師への信仰があったからだろう。
神社内にお神輿があるが、これは飽の浦くんち(長崎市、伊勢宮神社、10月16日~17日)の為だろう。
しかし伊勢宮神社の成り立ちがこうなのだから、この祭りは後と付けだと思う。
そして、飽の浦の伊勢宮神社の階段が長坂と呼ばれ、諏訪神社の長坂と同じように73段ある。これも又、キリシタン撲滅のため、諏訪神社を真似たためだと思う。
これは憶測だが、大日社という仏を祀った神社が、この場所にあるのは荒木宗太郎の新妻アニオーさんへの配慮だと思った。
ベトナムは元来仏教の国である。そして生活に根ざした民間宗教が存在している国である。
新妻アニオーさんも信仰心は当然あったと思う。異国に嫁に来た新妻アニオーさんのために、信仰する場所を作ったのではないか思う。
飽の浦の地は、三菱の工場のため、大部分の海岸が埋め立てられており、昔の飽の浦の面影がすっかりなくなってしまった。
寂しさもあるが、世の流れに従った地域だと思う。