岩瀬道の宮地嶽神社
旭町から三菱造船の方に行き、飽の浦トンネル前を左に大きくカーブする神ノ島方面への道を行けば、三菱の世界遺産「第三船渠」の手前、山側に宮地嶽(みやじだけ)神社というのがある。
入り口がわからずウロウロしたが、大きな岩の切通しの崖に階段がついてあったのを発見。
「ここか」と思い、細い階段を上がると石碑があり、一の鳥居が現れる。
「へー、こんな場所に神社があったのか」と思う。
いつから建てられたのかは不明だが、参道の鳥居の建立年には大正3年(1914)と書かれている。
細い山道を登ると、建物につく。
とても神社とは思えないが、石碑を見ると平成二年の日付があるので、その際作り変えたのだろう。
しめ縄も賽銭箱もなく、鈴の紐が垂れ下がっているだけである。
由来の立て札もなく、外から見ただけではどんな神社なのか、全く不明である。
となれば、推理するしかない。
宮地嶽神社という名前は有名である。
一番なのは本社といわれている福岡県福津市の日本一の大しめ縄と光の道で有名な宮地嶽神社である。
主祭神は神功皇后、それに従っている勝村大神(カツムラノオオカミ)・勝頼大神(カツヨリノオオカミ)である。
そして岩瀬道以外、長崎八幡町にもある。
陶器で出来た鳥居で有名な八幡町の宮地嶽八幡神社だ。
ここの由緒だが承応2年(1652年)、修験者が京都男山八幡宮より分霊を勧請し この地に大覚院を創立し奉祀したことにはじまるとある。
お諏訪さんの最初の神主も修験者だった。こうしてみると修験者(山伏)は、影の大きな力だったのだろう。
昔は大覚院だったとあるので、お寺であり宗派は真言宗である。
宝永元年(1704年)大覚院が黄檗宗に属したことより唐船の人達にも当社は尊崇され毎年多額の寄進が唐船よりよせられたとある。
黄檗宗(おうばくしゅう)という名前は唐の僧・黄檗希運に由来している。宗派は江戸時代に始まった禅宗である。
日本の江戸時代元和・寛永(1615年 - 1644年)のころ、明朝の動乱から逃れた多くの中国人、華僑が長崎に渡来して在住していた。
とくに福州出身者たちによって興福寺(1624年)、福済寺(1628年)、崇福寺(1629年)(いわゆる長崎三福寺)が建てられ、明僧も多く招かれていた。
つまり、長崎市内に唐人達のお寺がたくさん建てられ、一つの勢力があったのだろう。
しかし、この由来を読めば、毎年多額の寄進を唐船からもらっていたので、真言宗から黄檗宗という禅宗に変わったということだろう。
これは節操がない話だと思う。
じつは僧侶に関しては問題が多い。
江戸時代、寺社奉行による寺請制度(檀家制度)のおかげで、寺は特権を持ったが、その特権で仏教界の腐敗が進み、民衆の反発も多く招いていたのである。
「地獄の沙汰も金次第」など、坊主が金に汚かったことはいろんな記録に残っている。
長崎のお寺も、多分例外ではなかったのだろう。
続いて、明治元年(1868年)神仏混交廃止令により大覚院寺号を廃して八幡神社と改称し現在に至ているとある。
明治の神仏混交廃止令は強力で、神仏混合だった神社を、無理やり引き離し、仏教を撲滅しようとしている。
これを排仏棄釈(はいぶつきしゃく)という。
墓場にあったお地蔵さんなどの首がないのは、この運動のせいである。
明治政府が神仏混交廃止令を出した背景は、明治維新による神道国教化である。
この時に、仏教のみならず修験者・陰陽師・世襲神職等、伝統的宗教者なども排斥されている。
これには、大きな意味があるのだが、ここでは触れないことにする。
この歴史の流れで、江戸時代までは神仏混合だった神社は、軒並み宗旨を変えている。
八幡町の宮地嶽神社も、勧進された特別の理由はないだろう。有名な神社なので、長崎にも一つ欲しいなーくらいだと思う。
しかし、あえて言えば、祭神が神宮皇后(息長足比売命)であることだと推測する。
神功皇后は、三韓征伐の伝説を持ち、なおかつ長崎港には伝説が多く存在する神様だからくらいかな。
岩瀬道にある宮地嶽神社もそれと同列だという気がする。
多分、昔から神仏混合の神様と仏様を祀っていた神社だったのだろう。飽の浦の伊勢宮神社と同じように、大日社だったのかもしれない。
それを、明治時代の時代の波に押されて、名前を宮地嶽神社としてしまったのではないだろうか。
神社がそこにあるという事は、何かの信仰があった証である。
今は宮地嶽神社となり、詣る人もなく、神社の体裁のない物置みたいになっているが、小山の上に立ち、港を一望出来る場所にあり、社殿は太陽が登る方向に向いている。
それだけでも昔は、この地域の守り神として光を放っていた時があったのだろうと推測できる。
だけど、この神社は放置されているわけではない。平成二年に建て替えされているからである。
信仰の思いは残され続けているのだ。
そう思えば、寂しさが漂う神社でもある。