諏訪神社の中の神社 謎の蛭子社 消えた三柱鳥居
諏訪神社の神殿横に、門があり閉ざされている場所がある。
その前に立て札があり、蛭子(ひるこ)社と書かれており、祭神が少彦名(すくなひこな)神とある。
そして、閉ざされた門の右側に小さな池があり、「川伯の井戸」と呼ばれ、「川伯は河童で、蛯子の神の使いと言われている」と書かれている。
不思議である。
蛭子社と書かれていて、祭神がいるのなら、拝殿や神殿があってもいいのだが、閉ざされている門があるだけである。
格子の間から、覗いたのだが、左手に、神殿があるだけで、正面は玉砂利の空間があるだけだ。
昔あったのだが、取り除いたのかもしれない。何もない空間が、神殿というのも不思議な事である。
しかし、もっと不思議な事がある。
普通、拝殿の前には鳥居があるのだが、ここにはない。
ただ、「蛭子社(ひるこしゃ) 」前にかつて三柱鳥居があったが、今は現存しない。ウィキペディア と記述がある。
つまり、実は、蛭子社の鳥居は昔あって、それが珍しい三柱鳥居だったのである。
不思議、もしくは不気味な謎がここには、存在していたのだ。
蛭子社
蛭子という字を見て思い出すのは、長崎出身の漫画家 蛭子 能収(えびす よしかず)さんである。読み方は「えびす」である。
蛭子(ひるこ)をなぜ「えびす」と読むのかといえば、その理由は少し込み入っている。
蛭子(ひるこ)とは、イザナギとイザナミとの間に生まれた最初の子供なのだが、不具の子に生まれたため、葦の舟に入れられ、オノゴロ島から流されてしまう。
次に生まれた子も、「わが生める子良くあらず」という事で、流されてしまったという事が古事記に書かれている。
最初の子が蛭子だったというのは、その子供がヒルの様に白くてぶよぶよしていたからで、二番目の子供はアワシマというのだが、どんな形状なのかは書かれていない。
記述はこれだけなのだが、民間の間では、
「蛭子(ひるこ)は漂着神として日本に舞い戻り、えびす様になった」
という信仰が出来上った。
漂着神
日本には漂着神という考えがある。
漂着神とは、外来の神や渡来の神。客神や門客神や蕃神といわれる神の事である。仏教の仏様も、最初は外国の神(蕃神)扱いだった。
漂着神には、潮流や風によって浜に流れ着く漂着物(寄物)や流木や舟をはじめ,酒樽,玉藻,ワカメ,鯨,タコ,白鳥など,日ごろ海辺に打ち上げられるものが多い。
そして、流れ仏と呼ばれる、水死体も漂着神である。
漁業において水死体に会うことを大漁と結びつけて喜ぶ慣例がある。長崎県では、水死人をゴロウジと呼ぶとある。
これは知らなかったが、五島有川町の江の島にはじめてあがった水死人の腕に、ゴロウジと入墨があったことから、こう呼ぶとある。
なぜ水死体が神として扱われ、丁寧に供養されたかといえば、漁業では、遭難して死体が上がらない事を、最も不吉な事としていたからだ。
なので、遭難した死体が陸に戻ってきたのは、めでたいのだ。
漂着神を「えびす(漁業神)」というのだが、文字を書けば「戎」や「夷」とかく。
これは、中国のいい方で、中心以外を四夷と呼び、蔑んでいたことによる。東北や北海道にいたアイヌ系の人々を「えぞ、えみし」と呼ぶのはここから来ている。
つまり、異郷の地の人々という意味になる。
ここからは、日本特有の混合や転換があって、諸説がありすぎて、こうだとはっきり言えないのだが、推論はある。
イザナギとイザナミとの子は蛭子
↓
蛭子は「しろくてぶよぶよしていた」ので海に流す。
↓
日本の民間では海からやってくるものを漂着神として祭る慣例があった。
↓
水死体は「しろくてぶよぶよしていた」ので蛭子(ひるこ)と同じ
↓
「えびす」日本の神様で、漁業神。
↓
なので蛭子(ひるこ)=「えびす」となり、蛭子を「えびす」と呼ぶ。
↓
日本で信仰されていた七福神の中に「えびす」が登場する。
↓
その七福神の絵の中で、左手に鯛をかかえ右手に釣竿を持ったキャラクターとなる。
という訳である。
そんな由来を持つ「蛭子」だが、諏訪神社では福の神の恵比寿と書かないで、古事記の「蛭子」の文字を書いているので、立て札に書かれている「水子守護(供養)」で間違いない。
水子とは、流産または人工妊娠中絶により死亡した胎児のことで、水子という呼び名は、生まれて間もなく海に流された日本神話の神・水蛭子の事だからだ。
少彦名神
また、祭神が少彦名神とある。
『古事記』によれば、スクナビコナは、大国主の国造りに際し、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ=ガガイモの実とされる)に乗り、鵝の皮の着物を着て波の彼方より来訪し、神産巣日神の命によって義兄弟の関係となって国造りに参加した、とある。
乗ってきたガガイモの実は小さいので、身長の極端に低い、小人の神様だとされている。
先にイザナギとイザナミの二番目の子供は、アワシマといい、この神も流されたと書いた。
このアワシマは淡島神で、婦人病治癒を始めとして安産・子授けなど、女性に関するあらゆることに霊験のある神となっている。
そして、淡島神は少彦名神だという説が多数である。
イザナギ、イザナミの一番目の子は、蛭子(流産・未熟児)で二番目の子はアワシマ(小人症・発達障害)で、二人とも、奇形だったと解釈されている。
それゆえに、古事記ではこの二人を神として数えていない。
祭神があるのに、神殿がないのは、その為なのか。
そして、その神として数えられていない、二人の子供の名前が、諏訪神社にあるのも、不思議といえば不思議である。
川伯と河童
立て札に「川伯は河童で、蛯子の神の使い」と書いている。
本来は、川伯ではなく河伯(かはく)と書き、中国神話に登場する黄河の神である。
日本では、河伯を河童(かっぱ)の異名としたり、「かはく」が「かっぱ」の語源とも言われたりしている。
蛯子が漂着神という側面があり、中国の河伯(かはく)を子分にして、日本にやって来たという意味だろうと思う。
三柱鳥居
最後に、この蛭子社の前にあったという、三柱鳥居(みはしらとりい)の件である。
この柱の形状があまりにも不思議なので、文章を書いたことがある。
この三柱鳥居は、対馬の和多都美神社にもある。
三柱鳥居の意味は様々言われているが、私がたどり着いたのは、禁忌(きんき、タブー)の聖地を守る門という説である。
なぜかというと、対馬の和多都美神社にある三柱鳥居の中心にあるのは、井戸や岩そのものなのだ。
対馬の信仰は、日本神道の古代形と言われていて、その古さは不明なのだが、鳥居自体が、もともとタブーの場所を守るものだったのなら、三柱鳥居の意味が通じる。
その後、神道が日本になじむようになってから、現在の門のような形式になったと考える。
だが、共に、結界なので、この説はそんなに的外れではないと思う。
なので、諏訪神社にあった三柱鳥居の中心には、「川伯の井戸」があったのではないかと思うのだ。
なぜ、この「川伯の井戸」がタブーなのかはわからないが、推論はある。
祓戸神社
諏訪神社の参道の脇に、祓戸(はらえど)神社がある。(踊り場の下の方)
祓戸大神(はらえどのおおかみ)とは、神道において祓を司どる神である。
お祓いをする神様なので、ここにあっても不思議はないのだが、神殿を見れば、祭祀用品が何もなく、神棚の戸が閉ざされている。
神棚の前は、空いていて、ここでお祓いをしていたのだ。
どんな神様が祀られているかというと、黄泉から帰還したイザナギが禊をしたときに生まれた神である。
なので、いろんな神様がいるのだが、瀬織津比売・速開都比売・気吹戸主・速佐須良比売の四神(女神)を祓戸四神というので、諏訪神社下の祓戸神社もたぶんこの神だろう。
神社の建物の屋根に付いてるV字型の出っ張りのことを千木というが、千木の先端が地面と水平になっていれば「内削ぎ」と言い、中にいる神様は、女神と言われている。
祓戸神社の千木も「内削ぎ」なので、祓戸四神で間違いないだろう。
河童の狛犬
さらに、不思議な狛犬がある。
逆立ちしたり、立ち上がっていて不思議なのだが、この狛犬の頭を見れば、なんと皿があるのだ。
そして、川伯の井戸にも狛犬がいる。
その頭にも皿がある。
つまり、川伯の井戸と祓戸神社は、確実につながりがあるのだ。
河童のような川伯(河伯)は、中国、黄河の神様であり、河川を守る中国の神である。
この狛犬が守っているのは、祓戸四神という事になる。
その神様を守るのが、河童の狛犬だとすれば、川伯の井戸も、みそぎの井戸を祀っているという事になる。
つまり、川伯の井戸=禊(みそぎ)なのだ。
三柱鳥居は対馬のわたつみ神社にあるのだが、それ以外にも、有名な三柱鳥居がある。
京都・太秦 木島(このしま)神社である。
京都・太秦 木島(このしま)神社である。
この神社の三柱鳥居は有名で、葛飾北斎が絵をかいている。
そして、この三柱鳥居は、元糺の池(もとただすのいけ)にある。
元糺(もとただす)とは不思議な名前だが、悪くなったので元に戻すという意味にもとれる。
そして、ここは禊ぎをする行場なのである。
つまり、諏訪神社の川伯の井戸とは、京都太秦の元糺の池(もとただすのいけ)と同じ意味があったのではないかという事である。
つまり、清めの水(みそぎ)である。
川伯の井戸とは、清めの水をたたえた井戸であり、それを河童が守っているという構造だろう。
対馬のわだつみ神社、長崎の蛭子社、京都太秦の元糺の池の三か所にある三柱鳥居。
そこに共通するのは、渡来系氏族の秦氏である。
わだつみ(和多都美)神社を別の漢字で書けば、海神神社となる。
つまり、海の事である。
この「わだつみ」という言葉から、わだ(和田)とか羽田(はた)という苗字ができている。そして意味は海である。
この読み方から、秦(はた)という苗字もできている。
北九州の八幡(やはた)市も同じ意味なのだが、八幡大菩薩の八幡は「やはた」の事なのだ。
京都太秦の秦は、秦氏であり、海神神社の「わだつみ」の「わだ」から「秦」という字ができているのだ。
それならば、長崎はどうだろう。
長崎新地の近くに「湊(みなと)公園」がある。
湊公園のある新地町一帯は、鎖国時代に中国に対する貿易品の荷蔵として、当時の海面を埋め立てて築造された地区だ。
確かに公園は新しい場所なのだが、なぜ「湊」という字を使っているのか不明である。
古代、渡来系氏族の秦氏が朝鮮半島経由で、対馬にわたり、長崎に来て、福岡の八幡、大分の宇佐神宮を経て、京都に渡ったと考えられる。
長崎に来た際、諏訪神社が建てられた場所の玉園山に、秦氏の信仰の場所を作ったのではないかと想像する。
だから「蛭子社」があり、川伯の井戸があるのだ。
諏訪神社に関して、こんな説明はまったくないので、これはすべて私の妄想である。
しかし、断片を組み合わせると、こんな推論に行きついてしまうのだ。
蛭子、少彦名神、川伯の井戸という3つのキーワードは、漂着神(異国の神)でつながってしまう。
そして、タブーの三柱鳥居が加われば、この場所は、古代の神々が祀られる場所だったのでしないかと、想像するのだ。
それほど重要なので、諏訪神社の神殿と同列にして、塀を作り、門を閉ざし、人が拝むこともなく、ひっそりとたたずんでいるのだと考えるのだ。
なので、諏訪神社がこの地に作られるずっと前には、この蛭子社が本当のメインではなかったかとも思う。
海の入り口である長崎だったら、至極当然の様だとも思う。
余談だが、長崎で行われている精霊流しだが、その精霊船に関して興味深い説がある。
精霊船の先頭についているラッパのようなみよしだが、これは少彦名神が乗ってきた天乃羅摩船(アメノカガミノフネ=ガガイモの実)、つまりガガイモの実の形状から来ているのだ。
ここにもまた、古代の言い伝えが、関係している。
想像をたくましくすれば、古代、一番最初に長崎に訪れたのは、蛭子と少彦名神だったのではないだろうか。
そして、どこから来たのかといえば、対馬だったのかも。
そして閉められた門の先には、今は何もないが、古代では異国の神が祀られていたのかもしれない。
考え始めれば、きりのない妄想である。
諏訪神社には、こんな謎が今でも眠っている事を伝えたいのだ。
追記
三柱鳥居の後を探したら、二つほど鳥居の跡らしきものを見つけた。
どうだろうか
お諏訪さんに想いを頂きありがとうございます、
長崎市東小島が本籍地、出生地が大村市