三柱鳥居の謎
秦氏のことを調べていたら、木嶋(このしま)神社の三柱鳥居の写真を目にした。
その様が珍しく、なにやら秘密じみていて、強烈な印象として残っていたので調べてみる。
外見は写真の通りである。 枯れている池の中にあり、三柱鳥居の真ん中には石が積んでいる。
北斎漫画にも描かれているくらいなので、その不思議さは江戸時代でも有名だったのだろう。
(葛飾北斎画:『北斎漫画』『三柱鳥居』)
木嶋神社は蚕の社とも呼ばれ古くから祈雨の神として信仰された神社とある。
場所は京都府京都市右京区太秦森ケ東町
そう。映画村で有名な「太秦(うずまさ)」である。
主祭神は天之御中主神、大国魂神、穂々出見命、鵜茅葺不合命、瓊々杵尊
社名は「木嶋坐天照御魂神社」とあり「天照御魂神(あまてるみむすびのかみ)」を祭っているが、天照大神(皇祖神)ではないといわれている。
創建は不詳だが推定すると大宝元年(701年)以前ともいわれている。
凄く古い神社である。
京都 太秦
嵯峨野・太秦周辺は渡来系氏族の秦氏が開拓した地で、広隆寺・松尾大社・蛇塚古墳などの関係寺社・史跡が知られることから、木嶋社もまた秦氏ゆかりの神社といわれる。
ただし秦氏の渡来以前にも、木嶋社付近では和泉式部町遺跡などの弥生時代頃からの集住を表す遺跡の存在が知られている。ウィキペディア
つまり、渡来系氏族秦氏の本拠地とされているが、それ以前にも人々が住んでいたので、遺跡や言い伝えなどがすべて秦氏ではないといいたいのであろう。
秦氏
秦氏は『日本書紀』において、応神14年(283年)、天皇に仕えた弓月君を祖とし、百済より百二十県の人を率いて帰化したと記されている。(別名は融通王)を祖とする。
秦氏の王、弓月君は現在「ゆうずきのきみ」とも読んでいるが、弓月の朝鮮語の音訓が百済の和訓である「くだら」と同音である。
という事は百済の君という事か。
しかし、弓月君は朝鮮半島を経由しているものの、秦氏の系統は『新撰姓氏録』において「漢」(現在でいう漢民族)の区分であり、当時の朝鮮半島の人々である高麗(高句麗)、任那、百済、新羅とは区分を異にしている。
また、中国の西、ウイグル、カザフスタンの辺りに弓月国(クンユエ)という国が存在しており、そこから来たという説もある。
秦氏に関しては、他の人の研究も多く、私も調べているのでここでは割愛する。
「日ユ同祖論」から見えてくるもの 謎の秦氏
ただ日本にやってきたというのは事実らしく
『新撰姓氏録』によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。
秦始皇帝の末裔だと記されている。
渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。
このあたりは怪しそうだが、中国特産の養蚕や織絹に従事したというのは事実で、「木嶋神社(このしまじんじゃ)」が別名「蚕の社(かいこのやしろ)」と呼ばれている理由はここにある。
いずれにしても秦氏が謎の多い氏族であるのは間違いない。
三柱鳥居も秦氏一族の独特なものとも思われる。
他にもある三柱鳥居
この神社以外にも三柱鳥居は存在する。
三囲神社(東京都墨田区向島)には、石造りの三柱鳥居があり、鳥居に囲まれるように井戸が設けられている。
三井家の守護神として崇められていることもあり、鳥居には「三角石鳥居。三井邸より移す。原形は京都・太秦 木島神社にある」と書かれている。
大和町 (岐阜県)にある三柱鳥居は、標高1000メートルほどの場所にあるが、鳥居がある場所に神社はない。
奈良県桜井市の三柱鳥居は新しく作られた新造品である。
このように三柱鳥居の不思議さから、色んな意味をつけて作られているようだ。 http://www7a.biglobe.ne.jp/~mkun/nazo/mihasira0.htm
南禅寺大寧軒(だいねいけん)の三柱鳥居は、木島神社の三柱鳥居を模したとみられている。
http://www.kyotofukoh.jp/report972.html
対馬の和多都美神社にも三柱鳥居はある。
私の住んでいる長崎市の諏訪神社に蛭子社があり、そこにも三柱鳥居があったと記録にある。
各地に三柱鳥居は存在する。
鳥居は神社につきもので、本来鳥居は社殿とセットであるべきである。
そして人と神の結界である事は、一般的に通用する説である。
これは間違いないだろう。
私も自説があるのでそちらも参考にして頂きたい。
時間探偵・鳥居は神を封じ込める結界
鳥居は門である。
基本的には通り抜けられるものだが三柱鳥居はその機能がない。
となれば特別な結界だと思われる。
よく、ネットで流布している三柱鳥居の謎解きを読むと、キリスト教だとかユダヤとかの説が多く、その奇妙さが怖さも相まって尋常ではない雰囲気があるからだろう。
それらの説は楽しいのだが、現実的に時代が極端に違ったり、こじつけや言葉の語呂合わせが多く、すんなりと賛同できないのだ。
もっと、単純で明快な理由があるはずだという確信を抱き続けている。
別の角度から考えてみる。
不思議な鳥居は、私たちがよく知っているお稲荷様にもある。
あの極端に数の多い真っ赤な鳥居は、伝統的な鳥居の形式から外れているとおもう。
これは、願い事がかなった(通った)御として、鳥居を奉納するならわしが江戸時代から起こったためである。
こんな氏子参加型の信仰もお稲荷さんならではと思う。
そして、これもまた京都一帯の豪族・秦氏の氏神である。
深読みすれば、秦一族の政治的権力が、氏子の希望を実現できるほど大きかったとも取れる。
でなければ、現世利益を願う庶民の歓心を買うことが出来なかったはずである。
つまり、純粋な信仰ではなく、秦一族の経済力や権力が信仰の対象になったのでないかと推測されるのだ。
(伏見稲荷大社)
木嶋神社内にも稲荷社がある。
秦氏一族にはやはり何かがあるのだ。
木嶋(このしま)神社の三柱鳥居は池の中にある。
その中央には今は石が積み上げられているが、本来何があったかさだかではない。
木嶋(このしま)神社の祭神に関して、ウィキペディアでも但し書きがある。
天照大神と天照御魂は別の神様
社名が「木嶋坐天照御魂神社」とあり、木嶋にいる天照御魂がご本尊だと明記している。
これは、木嶋坐天照御魂はアニミズムと呼ばれる太陽信仰の神を祭る場所で、皇室の最高神である「天照大神」とは別物であるとはっきり書いている。
読み方も「天照御魂神(あまてるみむすびのかみ)」であって「アマテラス」ではない。
そして古くから祈雨の神として信仰された神社とある。
特別に雨に関係している神様がいるわけではないし、太陽の神様に雨乞いをするというのも不思議な話である。
今でも下鴨神社、木嶋神社ともに夏の土用丑の日に糺の森の中の池に手足を浸して禊をする神事(相嘗祭、祈雨祭)が行われている。
この池の名は元糺(もとただし)の池という。
今は枯れているが、昔は湧水が豊富に湧いていて、この泉に手足を浸すと諸病に良いとして信仰されているという。
また、昔は神事などに従う前、ここで全身を水で清めたとの事である。つまり、この池には穢れをはらう力があると信じられている。
これらの信仰は後付だと思われるのだが、何よりも一番気になるのは、元糺(もとただし)という名前である。
何をどう、元にただすのが?!
そもそも元とは何だろうか。
そして元糺の池に、今回の三柱鳥居がある。
木嶋(このしま)神社の事を調べても、由緒ある神社だという事はわかるが、三柱鳥居が有る理由にはたどり着けなかった。
そこで他の場所にある三柱鳥居を調べなおして見た。
和多都美神社
やはり古さと格式からいっても対馬の和多都美神社があやしい。
和多都美神社は長崎県対馬市豊玉町に有る神社で、海彦山彦の伝説が残り、竜宮城といわれている神社である。
和多都美は「渡海宮(わたつみのみや)」といっていた。 対馬は文字通り大陸と大和の海路の最重要拠点であり、さまざまな伝説や重要な遺跡が多い。
和多都美(わたつみ)の「わた」は秦(はた)に通じるといわれる。
わた‐つ‐み【海=神】
1 海を支配する神。海神。わたがみ。わたのかみ。
大海。:デジタル大辞泉
ワタツミ・ワダツミ(海神・綿津見)とは日本神話の海の神のこと、転じて海・海原そのものを指す場合もある。 「ワタ」は海の古語という。
和田、波田などは海系統の名字といわれている。
この和多都美神社の何が凄いかというと、日本の端の対馬にあるということである。
さらに対馬は古事記の国産みに「対馬洲」「対馬島」として出てくる。
また、あの邪馬台国で有名な『魏志』倭人伝にしっかり出てくる。
その『魏志』倭人伝の描写によると、
対馬は、居る処は絶島で、土地は山が険しく、深林が多く、道は獣の径(みち)のようであり、千余戸の家はあるものの、良田がないので海産物を採集して自活し、船による南北の交易によって生活していたと記されている。
また、他の倭の諸国同様に、「卑狗」(ヒコ)と呼ばれる大官と「卑奴母離」(ヒナモリ)と呼ばれる副官による統治がなされていたとする。
第18代新羅王実聖尼師今の治世7年(408年)に、倭人が新羅を襲撃するため対馬島内に軍営を設置していたことが記されている。
このように、対馬はヤマト王権による朝鮮半島出兵の中継地としての役割を担っていたことが知られる。
対馬は朝鮮と倭国の重要拠点であり、賑わいのある千余戸の家がある国だったのだ。
対馬神道
対馬には卜部神道の源流をなすのが対馬神道があり29座もの式内社があった。
対馬神道の原点ともいえる『天道縁起』には、ウツロ船に乗って感精した女が天童を生んだという独特の天童信仰があり、この信仰は遠く北陸・出羽にも影響をあたえたと言われている。
この天道縁起は、高句麗王朝の始祖・朱蒙の生誕伝説と同じベースを持っている。
こう書くと、対馬は朝鮮の影響を受けていたと言う人が出てくるが、事実は逆である。
だいたい古朝鮮の歴史は何も資料がないので不明だし、武力や文化程度が朝鮮半島より格上であり、朝鮮半島の方が対馬(日本)の影響を受けているといえる。
注目すべきなのは対馬の天道伝説は、日本の神道の元になっている古事記の高天原の話とは違うという事である。
「木嶋神社」の木嶋坐天照御魂もまた、古事記の高天原の天照とは違う「太陽神」つまり「天童」が神として信仰されていたのだ。
このつながりの意味は大きい。
ここで対馬と京都の太秦はつながっている。
注目すべきは古事記の「高天原、天孫降臨」のほうが後から出来たという事実である。
アマテラスを祀る伊勢神宮に不思議な謎が存在している事で、アマテラスが天皇の祖先神ではないという説がある。
■天皇の祖先神アマテラスを祀る伊勢神宮だが、なぜ朝廷の本拠地である大和ではなく、都から遠い場所の伊勢にある。
■参拝方法が逆。最初外宮の食の神様豊受大御神(とようけおおみかみ)を参拝し、次に太陽神のアマテラス(天照大御神)がまつられる内宮を参拝する。
■江戸時代までの歴代の天皇で伊勢神宮を参った天皇はいなかった。
■崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。
■天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑に祀らせ、その後、各地を移動した。
このように、自然神アマテラスは、後になって大和の祖先神として登場したのではないかという憶測の下になっていることを付け加えておく。
処女懐胎
対馬神道には処女懐胎の逸話がある。
天童の母親は朝日に向かって小用を足していたとき、日光に感精して天童を妊娠したという。
処女懐胎の話はキリストのマリアの話しが有名だが、世界中に存在する。
アイヌの伝承に出る、はるか彼方の島メノコ・コタンの住民は全員女性で、東の風を受けて孕むという。
『西遊記』(第五十三回)には、妊娠する水を飲んで懐胎する西梁女人国で、三蔵法師と猪八戒が水を飲み孕んでしまう話がある。
仏教の説話には摩耶夫人は六本の牙を持つ白い象が胎内に入る夢を見て釈迦を懐妊した、とされる。
このように、世界中に処女懐胎伝説は存在している。
ところが日本の神話ではイザナギ・イザナミのセックスによって神々が生まれたとある。
という事は、対馬神道の方が、世界標準ということになる。
和多都美神社の三柱鳥居は二つ有る。
ひとつは参道の脇にある海水の入り込む潮溜まりに阿曇磯良(あづみのいそら)の岩を囲む形である。
潮が満ちると水中の上に立つ形になる。
(阿曇磯良(あづみのいそら)の岩を囲む形)
もうひとつは、海神の豊玉彦命の墓を囲む形で三柱鳥居は立っている。
一般の鳥居は神社の前に立っている。
そして鳥居は結界となり、神と人を仕切るものである。
神殿と鳥居はワンセットになっていなければならないはずである。
ところが三柱鳥居は、神殿が無い。
三角形の中央に、石、又は岩が置いている。 まさに守っている形になっている。
三柱鳥居といい、海に続いている神社といい、独特の神道がこの場所に存在している証である。
対馬全体を検証したい。
天道信仰と「おそろしどころ」
対馬では独自の天道信仰がある。
太陽の光が女性の陰部に差し込んで孕み、子供を産むという太陽感精神話が伝えられ、母神と子神として祀るようになったという。
母神を山麓に子神を山上に祀り、天神たる太陽を拝むことが多く、山は天道山として禁忌の聖地とされる。
子神は天童や天童法師とも言われる。
天道信仰の聖地、天神多久頭魂神社(てんじんたくずだまじんじゃ)は、杜の無い磐座(いわくら)の祭壇があるのみである。
そしてその天道伝説を実証するのが、対馬の八丁角にあるご神体である。
ネットのユーチューブにその道のりを記録しているビデオがある。
見てみると、確かに常軌を逸している。
対馬 八丁角(郭) ながさき島ステーション 八丁角 https://www.youtube.com/watch?v=devVmu6cCcs ムービーのスクリーンショット
手入れ無しの山道と、稲荷神社のように間隔のせまい鳥居が続くのが不気味である。
さらに、深い山奥にある積み上げられたらピラミッドのようなご神体が存在する。
八丁角とは、八丁四方という意味で、この墓を中心とする方八丁=約1キロメートル四方の区域は「卒土の内(そとのうち)」と呼ばれ、「おそろしどころ」と言われて、かつては絶対侵入不可の土地であった。 http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/0194366581dbf3fb2e2f43d376280ae0
朝鮮通信使の一員として日本を訪れた人の記録がある。
「南北に高山あり。みな天神となづく。南は子神と称し、北は母神と称す。
俗、神を尊び、家家、素撰をもってこれを祭る。
山の草木、禽獣は人あえて犯すもの無し。
罪人、神堂に走入すれば、すなわちこれあえて追捕せず」 天神は天道、北の母神は佐護の天道山、南の子神は豆酸(つつ)の卒土山に比定されている。
「ソト」は神をまつる治外法権の場所であると同時に、「ソトを立てるの義、浮しゅに似るあり」とあって、仏塔に似たものを意味するらしく、浅藻の八丁角の累石壇が連想される。
ここにある「豆酸(つつ)の卒土山」が意味深長である。
豆酘(つつ)は対馬の南西端にある町で、多久頭魂(たくずたま)神社や高御魂(たかみむすび)神社があり、祭神の高皇産霊神(たかみむすびのかみ)はウツロ船に乗って漂着した霊石という伝説がある。
『古事記』では天照大御神の子供と高御産巣日神の娘と結婚して生まれたのが瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)であるとなっている。
つまり、地上に降りてきたニニギのおばあちゃんが天照であり、おじいちゃんが高御産巣日神なのだ。
この事により、豆酘(つつ)という場所は、日本神話の源流とも言われている。
また豆酘(つつ)という名称も意味深である。
【地名の由来】単純に津々(港)が豆酘の字に変わったという説もあれば、海人のシンボルである蛇を表す筒に由来するという説もある。
ちなみに住吉大社の祭神は筒男三神。
ここにあるように、日本の神様である筒男三神だが、住吉大社の祭神である。
『古事記』では主に底筒之男神・中筒之男神・上筒之男神とあり、その名前の由来がまず不明なのだが、この豆酘(つつ)からきたという説は納得できるものがある。
この3人の神様は、イザナギが黄泉の国から帰ってきて、海で禊をした際、生まれてきた神様になっている。
言い伝えも不思議で、神功皇后が「新羅を征討せよ。我ら三神を祀れば新羅も熊襲も平伏する」という神託を得て、それを信じた神功皇后は戦わずして、百済、高麗、新羅の三韓を征服したという。
という事は、この筒男三神は朝鮮半島に対して、すごい力を持っていたことになる。
もしそんな力を持っている国があるとすれば、それは中国の王朝だということになる。
そう言えば秦一族は始皇帝の血縁だとも言われているな。
うーん、だんだん頭がこんがらかってきた。
また卒土(そと)山だが、「ソト」は神をまつる治外法権の場所であるとあるが、これは日本の墓地で見かける卒塔婆と同じ意味で、Stupa (ストゥーパ)からきているようで、簡単に言えば仏舎利塔の事だといえる。
あれれ、神道の話だったのが、いつの間にか仏教も混じっているではないか。
まとめようとしても、まとまらないことばかりだが、確かに日本の神道が、この地の伝説に大きく影響を受けていたということは推測できる。
また、対馬になぜこんな話が残っているかと言えば、やはり大陸と日本国の丁度接点にあったという事だろう。
古代、インド、中国大陸等の文化がこの対馬に一気に流れ込んだのではないだろうか。
朝鮮半島の南部にあった倭と、九州にあった倭の国々、そして日本列島で生まれてきた様々な国々は、この対馬経由で新しい文化や神話の洗礼を受けたのである。
ここで取り上げていない様々な謎はまた後の機会に探求してみたいと思う。
さて話が大きくそれてしまったが、「おそろし処」に戻る。
「おそろし処」にある鳥居だが、昔からこうなのか、壊れてしまっているのか不明だが2本足ではない。
もしかすると、三本柱の鳥居もこの形式を汲んでいるのかもしれない。
蛇足
対馬卜部の祭神である太祝詞神(天児屋根の別名)太祝詞神社(ふとのりとじんじゃ)というのがある。
京都の秦氏の本拠地、太秦の字でうづまさとよませている由来のひとつに 雄略天皇の御世、 渡来系の豪族秦氏(秦酒公)が、絹を「うず高く積んだ」ことから、「禹豆満佐=うずまさ」の号を与えられ、これに「太秦」の漢字表記を当てたという説 がある。
私は京都の太秦の「太」は「太祝詞神」の「太」や太陽の「太」をとったのかもしれないなと想像で思う。
和多都美神社の二つ有る三柱鳥居はどちらも真ん中に石がつまれている。
これは、八丁角と同じである。
そして木島神社の三柱鳥居も同じなのだ。
三柱鳥居は他の場所では見られない。
となれば、秦氏は当然対馬出身の一族ということになる。
又は和多都美神社を信仰している人間が指導者だった一族かも知れない。
和多都美神社の鳥居は一直線に海に向かっているというか、海から陸に向かって並んでいる。
鳥居の方向は、朝鮮半島から陸に上がってきて、その延長線には阿曇磯良の志賀海神社がある。
その当時朝鮮半島にはどの民族が住んでいたのか不明であるが、史実からいえば漢朝によって設置された楽浪郡の支配下にあったと思われる。
漢朝によって設置された楽浪郡が西暦313年まで存在したとある。その時代の朝鮮半島には百済の前身である伯済国があった。
伯済国は馬韓という50余国の部族集団の中の一つであった。
馬韓の位置は帯方郡の南、黄海に接し、東方は辰韓(後の新羅)、南方は倭に接していたとある。
これを信じれば、倭国は朝鮮半島北部にも存在していたという事になる。
とすれば、朝鮮半島の倭国、対馬、福岡が和多都美神社でつながれていたとも言えるだろう。
結論を述べる。
三柱鳥居は、特別霊的なものではない。
大切なものを敬う、恐れる、といった単純な発想からきている。
対馬の神道は、現在の神道より発想が自由なのだ。
古代神道は偶像崇拝ではないし社殿すらない。
日本の神道の根源の象徴でもある八丁角 は「おそろし処」と呼ばれ、禁忌(きんき、タブー)の聖地である事は間違いない。
神道は偶像を崇拝しないかわりに信仰の対象である自然の岩や山を敬い、 鳥居をたてて、人が勝手に手を入れない禁忌を示す結界をもうけている。
だから鳥居はタブーを守る結界であると結論付けられる。
三角鳥居は「おそろしどころ」
三角鳥居は神道の基本姿勢とは一線を引く。
対象が井戸であったり、岩であったりする。
三角鳥居は閉じた世界の象徴である。
絶対触れてはいけない、象徴の存在を表現している。
つまり「おそろしどころ」なのだ。
そして、それは対馬の神社全体でおこなっていたわけではない。
和多都美神社だけである。
こんな話しがある。
三角寺 愛媛県四国中央市金田町三角寺75にある高野山真言宗の寺院。
空海(弘法大師)が来訪した際、本尊である十一面観世音と不動明王を刻み、三角形の護摩壇を築き21日間降伏の秘法を施したとされる。ウィキペディア
三角形の鳥居というだけで、キリスト教の三位一体や宇宙原理などを持ち出す人も多いが、人間が生きていく上で、形というのは常に周りにあるものだ。
四角や丸は安定感があり、色んなものによく使われている。
しかし三角形は尖っていて、閉ざされているし攻撃的な危険な臭いがする。
三角形は、円以外の様々な形の最小形である。
この手の話しになるとよく出てくる五芒星、六芒星も三角形の集合体である。
西洋魔術にもピラミッドにも出てくる形だ。
特定の宗教や考え方ではなく洋の東西を問わず三角形はある種の力を持っていると人間は考える。
その中での三角鳥居である。
和多都美神社を本拠地にしていた一族は対馬内でも、特殊だったのだろう。
いや、対馬の古代神道の流れをくみながらも、新しく台頭してきた大和一族に大きな魅力を感じていた一族だと思われる。
それが秦氏だったのだ。
2世紀 - 7世紀頃において、日本から主に朝鮮半島に移住した倭人(倭族・大和民族)であっても、日本に亡命・帰還した際は渡来人と呼称されている。
今の日本の大元を培ってきた中国や世界の技術を肌で感じ取った大陸系倭人一族は、倭国で統一運動を推進している日本に帰国したといえる。
秦氏の三本柱鳥居は、精神的な母体、和多都美神社を忘れないための遺跡であり、天道信仰の封印の場所でもあった。
だから木嶋坐天照御魂神社と名付けたのだ。
海神神社の目の前の地には木坂海神神社がある。
さらに、木嶋の名前は、大和朝廷のある木の国、つまり日本の中にある対馬(嶋)の事を示している。
対馬にあった、日本の古代神道は人を寄せ付けない神道であった。
和多都美神社は、海の中にも鳥居を立てたり、三角鳥居を作ったり、鳥居の数が多かったりと、神道を人のために生かしていく方向性を持った、ニューウェーブの集団であった事は間違いない。
木嶋坐天照御魂神社には次の5柱が祭神となっている。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
大国魂神(おおくにたまのかみ)
穂々出見命(ほほでみのみこと)
鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
瓊々杵尊(ににぎのみこと)
この中の鵜茅葺不合命だが、彦火火出見尊(山幸彦)と、海神の娘である豊玉姫の子である。
これだけでも和多都美神社と関係があると公表していることになるのだが、 鵜茅葺不合は、鵜(う)の羽で屋根をふこうとしたところ、ふきおわらないうちに生まれたことから来るとある。
つまり、屋根がない神様ということになる。
屋根がない神様とは、対馬の天道信仰、八丁角(郭)のご神体は社殿がない。
つまり、屋根を持っていない神様である。
そして三本柱鳥居にも社殿がない。
鳥居だけで、守られているご先祖様にも屋根がない。
自分たちの元を糺す場所
三角鳥居は、故郷の和多都美神社をしのぶ祈りの形だったのだろう。
そして元糺の池。
この「元糺の池」は、故郷の対馬の和多都美神社そのものなのだ。
秦氏は、この地を対馬天道という自分たちのルーツの場所とした。
「元糺の池」は、自分たちをルーツにただす場所として残したのだ。
元糺とは自分たちの元をただす意味である。
自分たちの元(ルーツ)とは、大和が信仰している天照ではない天道信仰をもつ一族という意味である。
そして、その池にある三角鳥居は、絶対不可侵の「おそろしどころ」として存在しているのだ。
これが三角鳥居の正体である。
「秦氏」「三柱鳥居」については、長年、読み漁っていますが、貴氏の慧眼に感服致しました。
貴氏の投げ掛けておられた点について、気付いた事をご参考までに述べたいと思います。
「元糺ノ池」「元糺ノ森」についてですが、漢字字解、ミトラ神と関連させて、推測したいと思います。
『字統』白川静著には、「糺」=「糾」ただす、あざなう、キュウ
=縄を三合する、とあります。象形は、「縄、よりあわせる形」=蛇、ロープで降下する形に見えます。キュウキュウと縄ずれ音がしますね。
『ミトラス教』フェルマースレン著、表紙には、「ファネス(時間の神)と習合したミトラス神」2世紀、が使われています。
ミトラ=巳寅=頭上に寅(UFO)、体に三合(四合)巳(縄)を巻き付けている。「UFO船内の柱(錫杖)に掴まり、手に三ツ又の鍬(いかづち)を持って地上に降り立とうとしている」かのようにも見えます。
ミトラ神は、太秦 広隆寺の「牛祭り」に牛に後ろ向きに乗っています。
つまり、「元糺ノ池、森」とは、元々は、「天空浮舟から神が縄を体を三重に巻き付けて糺池、糺森に降り立った」んじゃないか、ということです。
「縄を真っ直ぐに垂らす」=糾す、正す、とういうことではないでしょうか。
補足ですが、「秦」に「禾」ではなく、「示」を使ってる字があります。
「示」=祖霊=天が三垂をもって示す、とあり、光が真っ直ぐに降りてくる象形にも見えます。
コメントありがとうございます。続けて検証を重ねていきたいと思います。