対馬への旅(2) 不思議だらけの和多都美(わだつみ)神社
対馬は南北に82キロメートルだという。
地図から見れば、長崎市の野母崎から佐世保くらいの距離感だ。
そして対馬を走り出してみれば、山道の連続。こんなに山道だらけとは予想外だ。
魏志倭人伝の対馬評は実に正しいと思った。
居るところは絶遠の島で、四方は四百余里ばかり。土地は山が険しく、深林が多く、道路は鳥や鹿の径(みち)のようだ。(魏志倭人伝抜粋)
対馬という地名
対馬という地名だが、対馬を(ツイウマ)と書いて対馬という。
なぜ馬なのかを考える。
書籍で調べると、最初は「津島」だったのだろうとある。
しかし、魏志倭人伝には「對馬」と書いている。それに倣って古事記も日本書紀にも対馬という字を当てている。ただ、三国志には「対海国」とあり、古田武彦氏はこちらが正しいとしている。
まあ「つしま」という読みは一般的にあったとされるので「対馬」の表記は正しいのだろう。
この対になった馬という字だが、あの邪馬台国にも「馬」の字が使われているし、日本の地名や役名にも、馬とか狗、卑、奴の漢字がたくさん当てられているので、中国王朝が日本を東夷と考えていたことがよく分かる。
和多都美神社
最初に行くのは和多都美(わだつみ)神社である。
この神社に行くまでにもいろんな神社があるのだが、まず最初にこの神社に行くことにした。
なぜなら、この神社が一番興味があったからである。
ナビを頼りに山道を延々と進むと、突然海に出て、そこの海岸にひっそりと建てられていた。
私にしてみれば、日本の中でも有名な神社だと思い込んでいるが、世間ではそうでもないのだろう。
ここに着くまでに、何十分も人家はなく、人気のない場所にあったからだ。まあ、これだから2千年近くこの地にあったのだと思う。
この神社の事を簡単に説明すると、まず海に続く鳥居がある事。
浦島太郎の原形だろうとされている、竜宮城はここだろうとされている事。
海幸彦、山幸彦の山幸彦が、この祭神の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、竜宮城の乙姫がもう一人の祭神、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)だという事。
不思議な三つ柱鳥居が二つもある事・・などである。
特に私が見たかったのが三つ柱鳥居で、小さく弱弱しい感じさえするモノなのだが見た時は感動した。
もうだいぶ前に下記の文章を書いたが、日本神道の原形のようで、いまだに興味津々である。
三柱鳥居の謎
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1244
他にもたくさん不思議なものがあるのだが、この神社に関しては別に文章を書くつもりなので、ここまでにしたい。
神社だらけの対馬
(一社)対馬観光物産協会ブログhttp://blog.tsushima-net.org/?eid=1034に対馬式内社マップがあったので掲載させていただいた。
このブログによれば、
延喜式に記載された神社を指し、西海道(九州)では98社(の神社)107座(の神々)が記されていますが、うち29社29座が対馬に集中しており、九州最多の神々の世界として朝廷にも認められていたことになります。
とある。
小さな神社を加えれば、対馬中いたる所に神社があるのだ。
その中でも、特に霊験あらたかとされる強力な神社は、上県郡の和多都美神社・和多都美御子神社、下県郡の高御魂神社・和多都美神社・太祝詞神社・住吉神社の6社6座としている。
今回の旅も、これらの神社を見るのが目的である。
やはり日本中の神様の原形がここにあるようだと思う。
多重構造で複合的な日本の宗教「神道」は、最初は自然信仰だったが、古事記や日本書紀が書かれたことで、一つの形を形成することになった。
その古事記や日本書紀に大きな影響を与えたのが、対馬の信仰だと私は思っている。
だが、なぜ朝鮮半島に一番近い島が、日本の神道の原形になったのだろうかというのが謎である。
私見だが、対馬は日本のエッジであり、中国大陸や朝鮮半島の思想、信仰が一番敏感に伝わってきた場所である。
だからこそ、日本人(倭人)としての存在理由が広がったのだと感じる。
つまり、同じ東洋人だけど、中国人や朝鮮人と、日本人は全く違うんだという思いが、日本独特の神社となって噴出したのだと思うのだ。
和多都美神社はそれほど広くなく、30分もうろつけば大体見て回れた。
これでよしと思う。
長年の思いがかない満足する。
次は対馬の最北端まで一直線である。
そういえば、朝長崎空港で食べたおにぎり1個しか食べていない。途中で食料を調達しなければともくろんで車に乗る。
ところがその食料に関して悲惨なことになったのは後の話。何も知らずに車を発進した。