精霊流し誕生のわけを考える
長崎の文化として根付いている精霊流しだが、いつからこんなに賑やかになったかという謎がある。
お盆の時期に、死者の魂を弔って灯篭やお盆の供え物を、海や川に流す行事は日本中にある。
灯篭流しをやっている地域の行事内容もさまざまで、もちろんしない地域もある。
この行事の根本は、死者の霊を川や海に流すという事で、霊の行き着く先は、海の彼方であり、仏教の西方楽土、極楽浄土のある方角を示していると思われる。
仏教の本場インドではどうかというと、インド最大の宗教都市ヴァーラーナシーでは、木の葉や花で作った小船に、ろうそくや花を入れて流す「プージャー」と呼ばれる行事が毎晩行われる。
これは、ヒンドゥー教の供養の儀式という事だが、日本と内容の意味が違って、死者の霊を弔うというのではなく、お供えするという行事である。
精霊流しに一番関係の深そうな中国はどうかというと、昔は(共産党政権の前)中元節に灯ろう流しをしていた。
その理由は、中元節の日には地獄の門が開き、祖先の霊が戻って来るのだが、この世への道がわからないので、灯ろうに火を灯して死者が帰る道を照らすという事である。
日本でも迎え火などがあるが、日本の川や海に流す灯籠は、死者の霊を弔うためで、やはり根本が中国と違う。
似てるけど、違うのだ。
中国の盂蘭盆会
中国のお盆は、盂蘭盆会(うらぼんえ)といい、7月13日から16日の4日間行われる。
長崎では崇福寺の盂蘭盆会が有名で、私も何度か行ったことがある。
豚の頭がそのまま出てきたり、金山銀山を燃やしたりと、中国の道教を身近に感じることができる行事である。
ただ、餓鬼に施す行法(施餓鬼)と重なり、盂蘭盆会で出てくるお供えは、餓鬼に施す為である。
この辺りが日本と大きく違う。
餓鬼とは餓鬼道におちた亡者(もうじゃ)の事であり、この餓鬼に食事を施すことで功徳が得られるというのは、儒教の影響が大きいのだろう。
日本では鬼や餓鬼は出てこないからである。
韓国の秋夕(チュソク)
韓国にも、お盆がある。
秋夕(チュソク)といい、旧暦の8月15日(中秋節)に祖先祭祀や墓参を始めとする行事が行われる祭日である。
どんな行事かというと、全家族が晴れ着に着替え、新穀でつくった酒とソンピョンや、ナツメ・栗・柿などの新たに採れた果物を祖先の祭壇に供えて祀るというもの。
お墓はどうかというと、儒教の強い影響で現代でも50%くらいは土葬で、土饅頭形式である。
日本と似ているようだが、「中秋節」という中華文化圏の行事に近いとされていて、日本のお盆とはやはり異なっている。
似ているが、根本が違うのである。
という事は、日本のお盆は日本独自の信仰行事と言ってもいいだろう。
彩舟流し(さいしゅうながし)
唐人屋敷内で行われた彩舟流し(さいしゅうながし)が大元だという説もある。
寛政時代(1789年から1801年)の記録には「昔は聖霊(精霊は聖霊とも書いていました)を流すに船をつくるということもなく」とあります。享保(1716~1735)の頃、中島聖堂の学頭をしていて、のち幕府の天文方をした廬草拙(ろうそうせつ)という儒者が、市民が精霊物を菰包みで流している姿を見て、これではあまりにも霊に対して失礼だというので、藁で小船を作ってこれに乗せて流したという記録があります。花火の通販・問屋の立岩商店https://www.hanabistore.com/syouroubune.htm
という記事がある。
どうやら昔から精霊船を作って流したという訳ではなさそうだ。
彩舟流彩舟流し(さいしゅうながし)は、流れ勧請とも言われた唐人屋敷内での施餓鬼法要である。彩舟流には、「小流し」「大流し」の二つがあり、「小流し」は毎年行われ、長さ約3.6m程の模型の舟を作り、それに荷物や人形を作って乗せ、唐寺の僧侶を招いて法要をしたあと、唐人屋敷前の海岸にだして焼かれた。「大流し」は、30~40年ごとに行われた大掛かりなもので、唐人の死者が100人を超えて、1隻分の人数程度になると、舟も7m以上もある模型の唐船を作り、彩色して帆柱、船具などもすべて実物そっくりに作り、飾り付けをして唐人屋敷前の海に浮かべ、港口まで小船で曳かれて焼かれた。「彩舟流」は死者の霊を故郷の中国へ送る行事だったが、明治維新後廃絶した。唐人屋敷と中国文化14http://nagasaki-r.seesaa.net/article/76541712.html
なるほど。
彩舟流しか。
長崎の中国人の風習は、確かに長崎の地に根付いている。
墓で花火をしたり、爆竹、矢火矢の派手さは、長崎だけのようで、長崎に住んでいた中国人の影響は大きい。
しかし、彩舟流しは、長崎の唐人屋敷内で死亡した唐人の位牌を収める幽霊堂というお堂で、幽霊が出ることが重なり、その霊を祀るために一年に一度行われていたのだという。
彩舟流しには幽霊が出てくる。
ここが日本人の感性と大きく違うのだ。
中国人の信じる道教には、天と鬼の間に人の世界があり、「符」を用いて護身や鬼の使役ができると考えられている。
昔の映画の霊幻道士キョンシーの世界観だ。
だから、鬼や幽霊が常に信仰行事に係っているのだ。
日本で登場する鬼は節分くらいなのだが、日本には道教は根づかなかった。
その理由は、道士と呼ばれる道教の宣教師が日本にいなくて、断片的な部分しか日本には伝わらなかったのである。
そして陰陽思想、五行思想や神仙思想、それに伴う呪術的な要素は道術から陰陽道に名を変えて、日本に根付くことになった。
ここは重要である。
精霊流しは、確かに中国風アレンジが効いているのだが、海に死者の霊を流すという発想は、日本人独自のものだろう。
精霊船は南方由来
精霊船を見れば、そのスタイルが南方由来だという感じがする。
精霊船の先端にあるラッパ状の船首部分「みよし(船の波切のことを「みよし」といい、水押(みおし)が転じて)」というが、藁でくるまれている。
精霊船の骨組みの周りにコモやゴザなどを巻くのも多いし、船尾には藁を垂らしている。
余談だが五島の念仏踊りは、腰にわらを巻いて踊っている。
このスタイルは、どう見ても中国風には見えない。
しかし、南方由来と書いたが、東南アジアにもこんな船はない。
やはり、これも日本製なのだ。
彩舟流しの絵を見てみれば、こちらは明らかに中国風の船である。
もしかしたら、長崎の精霊流しを見て、唐人屋敷内で彩舟流しを始めたのかもしれない。
精霊船の爆竹を焚いての中国風の見送りは、身内になった中国人を送るために始めたのかもしれないと思う。
そうすれば、中国出身者の霊は喜ぶかもしれないと思ったのだろう。
対キリシタン政策
もう一つ忘れていけないのが、キリシタン禁止令である。
その時代、日本と貿易ができる国は、中国とオランダだけだった。そして、長崎市内には隠れキリシタンと呼ばれる人たちがいた。
江戸時代中期から4度にわたって浦上崩れというキリシタン弾圧事件が起こっている。
そんな時代背景の中で、精霊流しはどんどんと規模を拡大したのではないかと推測している。
海に死者の霊(災い)を流すという風習は、古代から日本に存在していた。
これは仏教でもなく、神道でもない。
祖霊信仰(それいしんこう)という、素朴な思いと言っていいだろう。
その祖霊信仰に仏教が絡み、精霊流しが行われたと思う。
最後に、日本人の思いの中に「水に流す」というものがある。
いいも悪いも、水に流して、チャラにしてしまう。
特に悲しみは、海に流し、海の果てから天にある極楽浄土への旅立ちを願う事で、幾分癒されるからである。
海と天、ともに「あま」と呼ぶ。
これが日本の文化である。
まさに海洋王国の心なのである。
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昔書いた文章です。よろしかったらどうぞ
精霊流しの謎。「聖者の行進」はこうして始まった