精霊流しの謎。「聖者の行進」はこうして始まった
8月15日は精霊流しが行なわれる。
長崎市を始め、長崎県内各地でお盆に行われる伝統行事である(ただし、県内でも海から遠い波佐見町等にはこの風習はない)。ウィキペディア
精霊は「しょうりょう」とよむ。
精霊は古神道的な意味合いがあり「しょうりょう」は黄泉の国に旅立った霊魂を指す。それに対して現世に残ったものは「幽霊」「亡霊」「人魂」などと呼ぶ。ウィキペディア
なるほど。
このあたりは納得である。
精霊流しの特徴は、あの船の形と爆竹である。
なぜ、あの形になったのか説明している資料はない。
例えば一番先頭についてる「みよし」。
「み‐よし」は「水-押し」で船首の事をいう。
普通は先が尖っているのに、精霊船のみよしはラッパ状だ。
まずここが謎なのである。
なぜラッパ状になったか、どの書物にも書いていないようだ。
不思議である。
普通だったらそのあたりの成り立ちは記録に残っているはずである。
かなり調べたが何も出てこなかった。
しかしただ一つわかったことがある。
みよしの正式名が、カガミというのである。
ガガイモがなまって、カガミになったとある。
ガカイモはガガイモ科ガガイモ属のつる性多年草。日本のほか東アジア一帯に分布し、同属の植物が東アジアやシベリアに数種ある。なお、民間伝承上の謎の生物ケサランパサランの正体はガガイモの種だとする説がある。ウィキペディア
さらに
スクナビコナは、大国主の国造りに際し、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)(=ガガイモの実とされる)に乗って波の彼方より来訪した。古事記
という説明もある。
確かにガカイモはティアドロップ型で、精霊船のみよしと同じ形である。
そしてスクナビコナという神様はこの実にのって日本にやって来たとある。
私の拾いもの
http://manekineko44.blogspot.jp/2011/10/blog-post_22.html
どうもピンとこない。
スクナビコナは少彦名命と書く。
海からやってきた神様で、恵比寿と同じようなものである。
長崎県内には少彦名命をお祀りしている神社は意外と多い。
しかし、精霊流しは主に長崎市内で行なわれている行事である。
市内以外は、あんまり伝わっていない。
それなら歴史はどうだろうか。
一番確実されているのは「彩舟流し」である。
長崎の盆風景の象徴とも呼べる精霊流しもやはり、中国の風習が定着していったものだ。ルーツは唐人屋敷で行われていた「彩舟流し」と言われている。屋敷内で死亡した唐人の位牌を収める幽霊堂というお堂で、幽霊が出ることが重なり、その霊を祀るために一年に一度行われていたのだという。
それ以外にもある。
寛政時代の記録には「昔は聖霊(精霊は聖霊とも書いていました)を流すに船をつくるということもなく」とあります。
享保(1716~1735)の頃、中島聖堂の学頭をしていて、のち幕府の天文方をした廬草拙(ろうそうせつ)という儒者が、市民が精霊物を菰包みで流している姿を見て、これではあまりにも霊に対して失礼だというので、藁で小船を作ってこれに乗せて流したという記録があります。
「長崎名勝図絵」という本には、享保の頃、物好きな男が小船を作って供え物を積んで流した、と一市民が始めたという趣で書かれています。
長崎市史の風俗編には、弘誓(ぐぜい)の船より思いついたものであろうという古賀十二郎の説が記されています。弘誓とは仏陀が衆生を救おうとする大きい誓願です。仏陀の弘誓によって衆生が生死苦悩のこの岸より涅槃の彼岸に至るのを、弘誓という船が人を乗せて渡らせるのに例えていう語です。この意味から、精霊船が発生したのだろうと古賀十二郎は推察しています。
長崎は中国と縁が深い。爆竹が使われるのも中国式である。
やはり「彩舟流し」が原型だったと思う。
彩舟流には、「小流し」「大流し」の二つがあり、「小流し」は毎年行われ、長さ約3.6m程の模型の舟を作り、それに荷物や人形を作って乗せ、唐寺の僧侶を招いて法要をしたあと、唐人屋敷前の海岸にだして焼かれた。
「大流し」は、30~40年ごとに行われた大掛かりなもので、唐人の死者が100人を超えて、1隻分の人数程度になると、舟も7m以上もある模型の唐船を作り、彩色して帆柱、船具などもすべて実物そっくりに作り、飾り付けをして唐人屋敷前の海に浮かべ、港口まで小船で曳かれて焼かれた。「彩舟流」は死者の霊を故郷の中国へ送る行事だったが、明治維新後廃絶した。
整理してみる。
精霊流しは中国人の「彩舟流し」が原型。施餓鬼法要ともいい、仏教における法会の名称になっている。
帆には「西方丸」と書かれ仏教伝来の考え方に乗っ取っている。
精霊船のみよしは精霊は「しょうりょう」とよび、古神道的な意味合いがある。
ガカイモは、古事記の少彦名命が乗ってきた船である。
神道と仏教がごちゃ混ぜになっている。
さらに「昔は聖霊(精霊は聖霊とも書いていた)を流すに船をつくるということもなく」とあり、昔からやっていた行事ではない。
同じように「長崎名勝図絵」という本には、享保の頃、物好きな男が小船を作って供え物を積んで流した。
この話しは、精霊流しが突然始まったという意味であろう。
まとまりもなく、歴史も不明。
ちゃんぽんになっている由来。
不思議なことである。
イベント行事
まてよ。
こんな行事は長崎にあった。
それは「長崎くんち」である。
「長崎くんち」は対キリシタンや貿易相手の諸国のために、盛大に行なわれたイベント型のお祭りである。
「精霊流し」も、幕府の隠された意図があったのではないだろうか。
まず、派手である事。
そしてキリスト教に対抗する神道、仏教の由来が必要なこと。
こう考えれば、江戸時代「長崎くんち」の成功に味を占めた幕府は、夏の行事として「精霊流し」を大々的に流行らせたと考えたほうが筋が通る。
中国人の「彩舟流し」をモチーフにして、みよしをラッパ状にデザインし、その由来を漂流神伝説を組み込む。
このイベントは派手でなければならないので、爆竹を多用する。
何処かの広告代理店が考えそうなイベントである。
コンセプトは、対キリシタンだ。
だから、「昔は聖霊(精霊は聖霊とも書いていた)を流すに船をつくるということもなく」という文章が残っている。
この行事が長崎市内が主に行なっている理由も理解できる。
キリスト教が根付いている地域で奨励されたと思われる。
イベント型の「盆」
いかにも長崎らしい。
しかし、作られた行事でも家族を亡くした悲しみは変らない。
長崎市内の人達は、この行事を受け入れた。
西方浄土への旅の前に、涙の代わりに爆竹を鳴らし続ける。
そこには宗教は関係ない。
長崎人の「送る悲しみ」をしっかり伝えていった。
黒人の葬式のパレードと同じように、賑やかな盆の行事。
「聖者の行進」は私たちの心に根付いていったのだ。
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