橘湾

場所は諫早市飯盛町の道の脇にある。

飯盛鬼塚古墳

飯盛鬼塚古墳 案内板

飯盛鬼塚古墳

説明書を読むと、戦前に特別攻撃艇格納庫の石材として使用されていたため消失し、石室の下部構造のみが残っているとのこと。

という事は、戦前の人たちはここに石造りの古墳があったのを知っていたのだろう。(古墳だとは思わなかったかも)

埋葬施設だったというので、単なる墓ではなく、石室の中に金環(耳飾り)、瑪瑙製「勾玉」や須恵器があったという。

6世紀の人の風俗はあまりわかっていないけど、勾玉や耳飾りが入っていたという事は、この古墳の主は女性だったかもしれないと思った。

飯盛鬼塚古墳

飯盛鬼塚古墳

6世紀の長崎

6世紀といえば、日本では飛鳥時代(あすかじだい)である。

この時代は日本史の中でも変革の時代である。

まず仏教公伝がある。

これは朝鮮半島の百済(聖明王)から贈られた金ぴかの仏像を送られた。それまでも仏教は伝わっていたのだが、百済の国宝級の仏像を気前よく、倭国の欽明天皇に送ったのにはわけがあった。

百済は朝鮮半島の新羅から攻められつつあったからである。なのでその金ぴかの仏像は、日本の助けが欲しいという切実な願いのこもった贈り物だったのだ。

結局、白村江の戦い(663年10月)が起こり、唐・新羅連合軍と日本・百済遺民の連合軍は戦い、負けてしまう。

話を戻す。

百済から贈られた仏像をきっかけにして、天皇は仏教に帰依する事になった。その事で、大和の神道派物部氏と仏教派蘇我氏との戦いになったのである。

聖徳太子(厩戸皇子)は蘇我氏についている。

飛鳥時代はそんな時代だ。

その時代に長崎の橘湾に豪族がいたのである。

まあ大和地方のいざこざはこの長崎にはあまり関係がなかったかもしれないが、海のそばの豪族である。

おそらく朝鮮半島や中国との交易はあったのだろう。

橘湾の島原寄りに唐比という地域がある。平戸の唐津と同じように、中国大陸の唐と関係があるのかもしれないが、時代的に言えば、朝鮮半島の日本領の加羅(伽耶)のような気がする。

その唐比と飯盛の間に有喜(うき)町がある。

余談だが、この有喜という地名から、長崎の古代豪族、土蜘蛛と呼ばれた「浮穴の沫姫(うきあなわひめ)」が住んでいた浮穴という地名は、有喜(うき)町だという説がある。(私は違うと推論を出した)

浮穴郷の結論を出す 長崎の古代史
https://artworks-inter.net/ebook/?p=4401

飯盛の近くに牧島という島がある。

ここにも曲崎古墳群(まがりざきこふんぐん)というのがある。

百済人一族の墓 曲崎古墳群
https://artworks-inter.net/ebook/?p=2649

この古墳群は5世紀末から7世紀初めに作られている。

101基の積石塚(つみいしづか)と性格不明の遺構約500か所が確認された。 又ガラス製の玉類や、当時の人々が使用した壺や、甕が発見された。

この古墳と飯盛鬼塚古墳は、必ず関係があるはずである。

時期的にもかぶるし、同じ流れをくむ豪族が住んでいたのだろう。

女性首長の国

九州長崎地域の古代を語る時、特筆すべきことがある。それは豪族の首長が女性だらけという事である。

田油津媛(タブラツヒメ)・夏羽(ナツハ) 福岡県
大山田女(オホヤマダメ)・狭山田女(サヤマダメ) 佐賀県
海松橿媛(ミルカシヒメ) 佐賀県唐津
八十女人(ヤソヲミナ) 佐賀県多久
速来津姫(ハヤキツヒメ) 長崎県佐世保
浮穴沫媛(ウキアナワヒメ) 長崎県

彼女らは大和側から土蜘蛛と呼ばれた豪族の首長である。

やはり、卑弥呼、邪馬台国の大きな影響があったと考えてもいいと思う。

なので、飯盛鬼塚古墳の首長も女性だったという可能性があるのだ。

飯盛町

飯盛町

橘湾は遺跡が少ないと言われている。

だが、遺跡が発見されていないだけかもしれない。古代橘湾を縄張りとした一族がいたのは確かなのである。

いまは人もまばらな場所だが、そこから見える景色には島原も長崎も見えているのだ。

ここにあった文化がどんなものだったのかを知りたいと思う。

今後の発掘、研究に期待したい。