百済人一族の墓 曲崎古墳群
曲崎古墳群の写真素材 アートワークスフリーフォト
http://freephoto.artworks-inter.net/magarisaki/kaisetu.html
国指定史跡 所在地 長崎市牧島町
この古墳群は、5世紀末から7世紀初めにかけて、つくられた古墳群である。平成16年度末現在で、101基の積石塚(つみいしづか)と性格不明の遺構約500か所が確認された。 又ガラス製の玉類や、当時の人々が使用した壺や、甕が発見された。石室構造には竪穴系横口式石室の特徴をもつものが見られ、 北部九州に分布する同種の石室構造をもつ古墳群と同様で、このことからこの地域が北部九州の文化圏に属していたことが判明した。
長崎市役所HP抜粋
http://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/190001/192001/p000539.html
牧島は長崎半島と島原半島に囲まれた千々石湾に浮かぶ島だ。
牧島という地名は、江戸時代諫早潘が馬の放牧をはじめたことによる。
この遺跡に来たのは2度目だが、木々の中に石ころが散乱しているようにしかみえず、
101基の積石塚(つみいしづか)と性格不明の遺構約500か所はわからなかった。
解説にもあるが、古墳時代後期の群集墳という事である。
古墳時代にこの墓形式が存在する地域は、香川県から徳島県の一部の地域と長野県、山梨県の甲府盆地北縁など一部の地域に顕著に見られる。
また、長崎県の対馬、山口県の見島、そのほか、宮崎・愛知・静岡・群馬県などにもみられる。 なかでも長野市大室古墳群、香川県高松市石清尾山古墳群、山口県萩市見島ジーコンボ古墳群などが著名である。ウィキペディア
ウィキペディアには長崎市の牧島は書かれていない。
101基の積石塚(つみいしづか)と性格不明の遺構約500か所が確認されているということは、この場所に一つの集団があったということだ。
そして、朝鮮系だということは間違いないだろう。
納得のいかない北九州の影響という説
長崎市役所HPに書かれている北部九州の文化圏に属するという解説は納得いかない。
長崎はと百済は近い。
直接、長崎に来たというのが正解だと思う。
扶余は更に南下する高句麗から逃れて538年に遷都した百済の都で、552年に日本に仏教を伝授した他に大工・瓦師・鋳仏師・仏画師・五経博士などを日本に送り出し、660年唐と新羅の連合軍に滅ぼされた。このとき、多くの百済人が日本に渡来した。
倫敦巴里
http://e-bozu.at.webry.info/201005/article_42.html
わざわざ北九州経由で長崎にくるわけがない。
長崎の稲佐山のふもとに稲佐地区がある。
「肥前古跡記によれば稲佐神の祭神は百済国聖明太子、空海人唐の折、稲佐山に上って怪異あり寺を創して海蔵庵と号す」とあり、中略 宮方についた武士の中に稲佐治都夫輔の名がみえる(大平記・鎮西志・治乱記)。
という記述がある。
「稲佐」は長崎の稲佐山と佐賀の稲佐神社があり、「稲佐神の祭神は百済国聖明太子」とある。
佐賀の稲佐神社には「飛鳥時代に百済より阿佐王子が来朝し、この地に留まり居を定め、稲佐大神とともに両親を合祀した。」という記述が残っている。
稲佐神社part2
http://blogs.yahoo.co.jp/kzomskmt/4556506.html
肥前に直接、百済人たちがやってきた証拠である。
それなのになぜ北九州の影響という解説が出てくるのか不思議である。
牧島は百済人の墓地
牧島は、百済人の墓地であった可能性が高い。
肥前地域は日本古代史に関して、やはり無視されていると強く感じる。
佐賀の吉野ヶ里をはじめ肥前には、遺跡、古墳は多い。
また島原には縄文人の大集落があった原山ドルメン、諫早干拓堤防近くの前方後円墳など、古代に関して、一つの文化圏があったさまざまな証拠がある。
曲崎古墳群はその動かぬ証拠である。