飯盛 下釜神社 高台から人を見守る

下釜神社
長崎県諫早市飯盛町下釜名151
諫早の飯盛地区で江の浦川の河口付近にある。海には前ノ島があり、陸地から堤防が伸びている。
河口の海に向かって右手東側の丘の上にある。下からの急な石段があり、頑張って登りきった場所に神社がある。

下釜神社 一の鳥居
一の鳥居には立派なしめ縄がかけられていて、やや驚く。
石段の上にはこじんまりとした社殿があり、ここにも大きな注連縄がある。
祭神は進雄神(すさのう 牛頭天王)とあるので、スサノウが祀られている出雲大社の巨大なしめ縄に倣ったのかも知れない。
拝殿はキレイに清掃されていて垂れ幕には、大きな菊の御紋が染められている。神棚には神鏡が安置されていて定番の様式だ。
創建は寛文11(1671)年8月。日本国の政権が安定してからの創建だ。
北高来郡史に、創建当時は「不動社」と称し現在でも「不動さん」と呼ぶとある。
まあ、不動明王もスサノウも強い神様には違いない。いつのタイミングで仏寺から神社に変わったかは不明だが、祀る側にしてみれば、どちらでも良かったのかも。

下釜神社

下釜神社

下釜神社

下釜神社 拝殿
神社の由緒
千々石灘風波防止である防波堤鎮護のために勧請せられたもの。当時、前面千々石灘(現在の橘湾)風波防止である横津の防波堤鎮護のために、勧請せられたものとされています。
海岸の町である。ここだけではなく、この橘湾沿岸は幾度も海の被害を受けている歴史がある。
こんな見晴らしのいい場所に神社を建てたのは、海からの被害をなくしたい住民の祈りにほかならない。
諫江八十八ヶ所

諫江八十八ヶ所 第五十八番札所

諫江八十八ヶ所 第五十八番札所
ここには、諫江八十八ヶ所 第五十八番札所が境内左にある。
由来
諫江八十八ヶ所は諫早第11代領主茂図(しげつぐ)公の治世が 長かったので、長子敬輝(ちかてる)に家督を継がぬまま、文化6年37歳で没しました。 敬輝の室、哲仙院(てつせんいん)は不遇な夫の菩提を弔い、領内安穏、子孫繁栄を祈って文政8年四国八十八ヶ所に習って諫早領内に88体の弘法大師像を設置されました。(郷土史家 山口八郎先生著書より)
仏というのは、人の不遇を癒やすためにある。
諫江八十八ヶ所はかなり個人的な理由で作られたようだが、運命に抗えない人の悲しみは不変である。そう考えれば、神は地域の人々の生活を守り、仏は人を癒やすためにあると言ってもいいだろう。
下釜の地名だが、山から見ると平地が釜の底に見えたからとある。
飯盛で下釜。ご飯系で統一したのかもね。
下釜神社はたぶん今でも下釜地域を守っていると思う。人が祈り続ければ、神は永久に存在できるからである。

下釜神社

下釜神社