諌早 高城神社 諫早家初代の龍造寺を祀る&諫早公園
〒854-0016 長崎県諫早市高城町1-5
場所は諫早市の真ん中と言ってもいいだろう。もっとわかりやすく言えば眼鏡橋の近くである。
入り口は車道側にあり、背後には杜と後ろ右には諫早公園の丘がある。
第十二藩主 諫早 茂洪(いさはや しげひろ)により天保13年(1842年)、現在の諫早公園がある城山頂上に高城大明神として祀られたのがはじまりとある。
御祭神は諫早家初代の龍造寺家晴公、菅原道真公。
諫早の歴史を調べれば、最初、貴族による荘園時代があり、南北朝の戦乱期には、熊本菊池家の流れをくむ西郷氏が100年治め、その後、秀吉の登場で竜造寺家が明治までの約300年を治めている。
なので、諫早は安定した勢力のおかげで発展を続けてきた町でもある。
明治に入り、庶民の寄付によって本明川河畔に移され高城神社の社殿が建てられる。
だが昭和32年の諫早大水害で社殿が流され、その後現在地に再建されたので社殿は新しく、新宮(しんみや)さんとも呼ばれている。
一の鳥居から入る境内は広く、色んなイベントの集合場所にもなっている。
二の鳥居の左右には記念碑や手水舎があり、立派な狛犬も作られている。その二の鳥居をくぐり、石段を上がると立派な拝殿に出る。
上部の境内左手には「若杉霊神」の碑がある。
由緒書き
寛延3年(1750)佐賀藩は藩財政の立て直しと諫早領主の不調法を理由に諫早領内の4千石を没収された為、度重なる佐賀藩の圧政に耐え兼ねた領民たちは、佐賀藩に反旗を翻し決起。若杉春后は「諫早の百姓騒動」と言われるこの騒動の先頭に立ち、長崎奉行、日田代官、大坂城代を通じ事の真意を幕府に訴えようとしましたが、佐賀藩の知るところとなり、若杉春后ら指導者は捕らえられ、佐賀で処刑されました。
テレビドラマに出てきそうな正義感の塊のような若杉春后を称えている。
佐賀藩に背いたのに、この神社に祀られているとは、よほど人気のあった藩士なんだろう。諫早は佐賀龍造寺の城下町なので、気骨のある人が尊敬されていたんだと思う。ちなみに、この地が諫早と呼ばれるようになったのは、龍造寺の息子の直孝が姓をから諫早に改めたからだ。
鶴森稲荷神社
境内右手には鶴森稲荷神社がある。
何本も建っている赤い鳥居の向きが、神社の方ではなく外に向けられているので、昔は入り口が外の道だったのだろう。
この稲荷だが、諌早一揆の犠牲者となった者たちの霊を祭っているらしい。
鶴森という名前だが、高城神社では「亀」が御祭神のお使いとして崇められているので、鶴と亀になぞって縁起のいい名前をつけたのかもと思う。
諫早公園
ここまでが高城神社なのだが、ついでに鶴森稲荷神社の鳥居を抜け、山の諫早公園に登ってみることにした。
何層にも別れていて、登るたびに記念碑がある。また、巨大なクスノキにも驚く。
ここには高城城跡がある。
文明6年(1474年)頃に、龍造寺家の前の諫早の覇者、西郷尚善が建てている。
一番上に高城社の鳥居があり、広場奥に墓碑がある。静かで杜も深く厳粛にな雰囲気がある。
石塔の近くに案内板があり、藤原明神、高城明神、亀の塔(がめんとさん)の由来が書かれている。
なるほど亀の上に石碑が立っていた。
藤原明神の説明には龍造寺の遠祖は藤原鎌足だと書かれている。
すごい。しかし大化の改新の藤原鎌足である。少し盛りすぎのような気もするが・・。
高城神社にしても諫早公園にしても、とてもキレイに整備されている。
近くには眼鏡橋もあるし、諫早のいい所を集めた場所である。