網場 天満神社 素晴らしい社叢と芸妓愛八

長崎県長崎市網場町1-1 網場 天満神社

網場 天満神社

網場 天満神社 一の鳥居

網場 天満神社 由来

ペンギン水族館へ行く道を、まっすぐいき、海に出るカーブの右手に有る。

立派な鳥居の右横に、神社の由来が書いていた。

そこには「日見天満宮」と書かれている。

鳥居の扁額は「天満神社」である。現在は網場町だが、昔は日見だったのだろう。

由緒
寛永三年(1626年)島原領主の松倉重政に勧請を依頼された、肥後飽田郡「祇園神社の神主」託麻将監清水が、境内社地の特権を与えらえれて彼杵郡一郷の鎮守として網場名に天満神社の杏を祀る

参道横の社

参道横の恵比寿

松倉重政について

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に際しては、大和郡山城の救援や、道明寺方面での後藤基次勢との戦いの功によって、翌元和2年(1616年)に有馬晴信の旧領であった肥前日野江4万3千石を与えられて移封した。
元和4年(1618年)、一国一城の制にしたがって従来あった原城と日野江城を廃して島原城の築城を開始する。禄高4万3千石でありながら10万石の大名の城に匹敵する分不相応な規模の城を築いたため、領民から過酷な搾取を行うこととなった。この際、検地を行い、領内の石高を実勢の倍近くに見積もり、領民の限界を超える税を取り立てた。ウィキペディア

松倉重政

この記録を読めば、かなり見えっ張りな殿様のようだ。

キリシタンや年貢を納められない農民に対し残忍な拷問・処刑を行ったことや、キリシタン弾圧への取り組みを幕府に対しアピールするため、キリシタンの根拠地であるルソンの攻略を幕府に申し出たりという事も記録されている。

作家の司馬遼太郎は著書『街道をゆく 17 島原・天草の諸道』の中で、「日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない」と記している。ウィキペディア注

とすれば、日見の地に天満宮を立てよという命令は、対キリシタン活動を幕府にアピールするためのものだと推測される。

「肥後飽田郡「祇園神社の神主」託麻将監清水が、境内社地の特権を与えらえれて」だが、わざわざ熊本の人間に特権を与えるというのも、不思議な話である。

これには何か裏があるのだろう。

一の鳥居から登る石段は急で、右脇には仏像群の小さな社が有った。中には恵比寿さまの像があり、これは場所柄、漁師の人たちが祀ったのだろう。

網場天満神社の社叢 市指定天然記念物

二の鳥居

寄贈玉垣 芸妓 愛八

石段の周りの鎮守の森は、結構深そうだ。

調べると、網場天満神社の社叢(しゃそう)は市指定天然記念物になっている。

旧日見村のころの氏神であった神社で、網場の海岸沿いの小高い丘の上にある。
この小高い丘全体が境内であり、社叢(しゃそう)でもある。丘を覆う主なものは、クスノキ・スダジイ・ヤマモモ・カゴノキ・アラカシ・ツバキ・ナナメノキなどの高木と、ハクサンボク・マサキ・クスドイゲなどの低木の照葉樹である。ここには、特別に貴重といえる種類も、また、巨木というほどのものもない。それでも、丘全体が社叢というまとまりと、沿海地の照葉樹林の社叢としても、大切に保存すべきものである。

二の鳥居の所に立て札があり、寄贈玉垣とあり、芸妓 愛八と書かれている。

本名は松尾サダで網場生まれだという。「長崎ぶらぶら節」を世にしらしめた有名人だ。

三の鳥居

四の鳥居

天満神社

天満神社 拝殿

天満神社 神殿

更に石段を登ると金属板で補強された鳥居があり、その先の鳥居をすぎると神社につく。

境内は広く、拝殿の前はコンクリートで固められ、周りは玉砂利が敷き詰められている。

拝殿は簡素な作りだが、神殿は立派な作りでアンバランスだ。

拝殿の中は少し雑然としているが、逆に人が出入りしている雰囲気がある。

境内の舞台

境内の祠

狐さん達

天満神社

天満神社

いろんな行事をするために氏子さん達が寄っているのかもしれない。境内右手には舞台もあり、祭りのためだろう。

拝殿左手には、石の祠と、真っ赤な祠の中に小さな狐がたくさん祀られている。

その右手にはトイレと社務所がある。

天満宮に付き物の牛の像もちゃんとあり、庶民的だがちゃんとした神社だと思う。

日見くんちも賑やかに開かれている写真もあるし、この地域の氏神様としては申し分ない。

この神社を作った殿様は、極めて評判が悪かったが、出来た神社はみんなから愛されているのがわかる。

昔のことは気にしないで、長く慕われるといいなと思う。

天満神社 参道

天満神社

 

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