飯盛町佐田 熊野神社 天井絵と絵馬

長崎県諫早市飯盛町佐田881 熊野神社

飯盛町佐田 熊野神社

飯盛町佐田 熊野神社

矢上から国道251号線で諫早へ向かう途中に建てられている。近くには諫早市立飯盛中、月の丘公園がある。

周りは田んぼで、社殿の敷地は低い石垣が作られていて、少しの石段を上がると、立派な一の鳥居が有る。

たるみすぎたしめ縄が張られていて、神額には熊野神社と書かれている。

飯盛町佐田 熊野神社 境内

諫江八十八ヶ所 第63番札所

諫江八十八ヶ所 第63番札所

江の浦・熊野神社の天井絵と絵馬

鳥居を抜けると、奥に広い境内になる。

境内の左手には諫江八十八ヶ所 第63番札所の杭があり、四角いコンクリートの祠には、仏様が三体祀られている。

そこから更に奥に進むと熊野神社だ。

瓦屋根の大きな拝殿で、鎮守の森が深く、薄暗い感じで建っている。

古さがにじみ出ている感じだ。

境内の右手には立て札が建っている。

江の浦・熊野神社の天井絵と絵馬というタイトルで、諫早市指定文化財の故が書かれている。

これは有名らしく、諫早市のHPに詳しく書いていたので掲載する。

天井絵は179格の中に花卉、動物、人物、山水が細やかな筆致とやわらかい色遣いで見事に描かれています。
絵馬は『秀吉耐忍之図』と『西郷卜月照之図』の2枚です。『秀吉耐忍之図』は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が大志を秘めて我慢している時の図とされ、肩をもんで耐えている様子を描いています。
『西郷卜月照之図』は、京都を中心に各地で反幕運動が激化した安政5(1858)年、大老井伊直弼による志士弾圧から逃れるため、西郷隆盛と月照は京都を脱出し、薩摩を目指し大阪より船出、その船上での二人の様子を描いています。薩摩藩主島津斉彬を頼り薩摩を目指すが斉彬はすでに亡くなり、幕府の追及は厳しくなる一方、ついに二人は綿江湾(鹿児島湾)に入水することになります。隆盛は命をとどめましたが、月照は命を落としました。
この絵馬2枚は「明治三十九年丙午十二月四日」とあり、熊野神社改築時に奉納されたものと思われます。

佐田 熊野神社

佐田 熊野神社 拝殿

佐田 熊野神社 天井絵

拝殿は板張りで、有名な天井絵は確かに有る。

重要なものだとはわかるが、色が抜けていて、私にはその重要さが残念ながらわからなかった。

結局、誰が書いたかわからないらしい。

天井には鈴の代わりに鰐口がぶら下げられていて、木の槌で叩くようだ。

佐田 熊野神社 神殿

創建は天正二年(1574年) この時代は信長の時代だ。

祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命。

拝殿の後ろに回り込み神殿を見ると、立派な神殿だ。

ホームページには天井絵のことばかりの情報で、肝心の熊野神社の成り立ちなどの情報はなかった。

だた、下記の情報が有った。

神社の裏には不明や消滅を含めた前方後円墳・円墳・方墳などの古墳群が42基あります。

熊野神社は元禄時代まで、佐田岳の中腹にあった。(飯盛中学校生徒作成のパンフ)

この古墳群の情報はなかったが、飯盛には大昔から人が住んでいて、熊野神社の場所にも、一つの文化圏が有ったようだ。

佐田岳の中腹にあった神社がなぜ、平地に降りてきたのだろう。

佐田 熊野神社

うーん。

諫江八十八ヶ所の札所もあり、神仏習合の神社だと思う。

有名な神社だが、ネットの検索では天井絵のことばかりで、肝心の神社のことがよくわからなくて消化不良である。

それだけ素晴らしい天井絵や絵馬が奉納された神社である。

絵馬より神社のほうが重要だと思うのだが・・。

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