飯盛町佐田 熊野神社 天井絵と絵馬
矢上から国道251号線で諫早へ向かう途中に建てられている。近くには諫早市立飯盛中、月の丘公園がある。
周りは田んぼで、社殿の敷地は低い石垣が作られていて、少しの石段を上がると、立派な一の鳥居が有る。
たるみすぎたしめ縄が張られていて、神額には熊野神社と書かれている。
鳥居を抜けると、奥に広い境内になる。
境内の左手には諫江八十八ヶ所 第63番札所の杭があり、四角いコンクリートの祠には、仏様が三体祀られている。
そこから更に奥に進むと熊野神社だ。
瓦屋根の大きな拝殿で、鎮守の森が深く、薄暗い感じで建っている。
古さがにじみ出ている感じだ。
境内の右手には立て札が建っている。
江の浦・熊野神社の天井絵と絵馬というタイトルで、諫早市指定文化財の故が書かれている。
これは有名らしく、諫早市のHPに詳しく書いていたので掲載する。
天井絵は179格の中に花卉、動物、人物、山水が細やかな筆致とやわらかい色遣いで見事に描かれています。
絵馬は『秀吉耐忍之図』と『西郷卜月照之図』の2枚です。『秀吉耐忍之図』は、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が大志を秘めて我慢している時の図とされ、肩をもんで耐えている様子を描いています。
『西郷卜月照之図』は、京都を中心に各地で反幕運動が激化した安政5(1858)年、大老井伊直弼による志士弾圧から逃れるため、西郷隆盛と月照は京都を脱出し、薩摩を目指し大阪より船出、その船上での二人の様子を描いています。薩摩藩主島津斉彬を頼り薩摩を目指すが斉彬はすでに亡くなり、幕府の追及は厳しくなる一方、ついに二人は綿江湾(鹿児島湾)に入水することになります。隆盛は命をとどめましたが、月照は命を落としました。
この絵馬2枚は「明治三十九年丙午十二月四日」とあり、熊野神社改築時に奉納されたものと思われます。
拝殿は板張りで、有名な天井絵は確かに有る。
重要なものだとはわかるが、色が抜けていて、私にはその重要さが残念ながらわからなかった。
結局、誰が書いたかわからないらしい。
天井には鈴の代わりに鰐口がぶら下げられていて、木の槌で叩くようだ。
創建は天正二年(1574年) この時代は信長の時代だ。
祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命。
拝殿の後ろに回り込み神殿を見ると、立派な神殿だ。
ホームページには天井絵のことばかりの情報で、肝心の熊野神社の成り立ちなどの情報はなかった。
だた、下記の情報が有った。
神社の裏には不明や消滅を含めた前方後円墳・円墳・方墳などの古墳群が42基あります。
熊野神社は元禄時代まで、佐田岳の中腹にあった。(飯盛中学校生徒作成のパンフ)
この古墳群の情報はなかったが、飯盛には大昔から人が住んでいて、熊野神社の場所にも、一つの文化圏が有ったようだ。
佐田岳の中腹にあった神社がなぜ、平地に降りてきたのだろう。
うーん。
諫江八十八ヶ所の札所もあり、神仏習合の神社だと思う。
有名な神社だが、ネットの検索では天井絵のことばかりで、肝心の神社のことがよくわからなくて消化不良である。
それだけ素晴らしい天井絵や絵馬が奉納された神社である。
絵馬より神社のほうが重要だと思うのだが・・。