川原町 菅原神社 河原大聖寺跡墓石群
場所は為石港から川原へ行く途中、内陸の方に進む。海からそれほど離れていないのだが、場所が奥に入り込んでいるのでわかりにくい。
入り口には、白い道案内に「河原大聖寺跡墓石群」と書かれた矢印があった。
その矢印のとおりに進むと、左手に石段があり10段ほど上ると広い場所に出た。
かなり広い敷地で、左手に鳥居、正面にはお堂がある。右手は開けていて畑である。
この左手の鳥居が、菅原神社のものである。鳥居には天満宮と書かれている。
鳥居のすぐ近くに社殿があり、小さな社殿を木々が鬱蒼と取り囲むように生えている。
社殿の造りは、最近のプレハブのようで入り口はサッシの戸だ。
そこから拝殿を覗くと、畳敷きで手前に賽銭箱があり、奥に神棚が作られていて、菅原道真公の像が祀られている。
左手には改築時の写真、右手には神額のようで菅原神社と書かれていた。
改築時の写真がカラーだったので、時期は昭和の中期以降だろう。
神社というより、仏寺仕様だ。
社殿を出て右側の方には墓石みたいな小ぶりの石塔があり祠もある。
その奥には、仏像群で奥にお釈迦様がいて、周りを他の仏像が取り囲んでいる。十六善神だろう。
神社を出て左のお堂に行く。これが大聖寺跡のお堂だ。
大聖寺跡というのでなにもないのかと思ったが、中には立派な仏像が安置されている。
中央は金色で蓮の花を持ったお釈迦様だと思ったが、細い立ち姿で女性的なので観音様だと思う。
左手には剣を持った黒い大黒天、右には像に乗った普賢菩薩。とすれば中央はやはり釈迦如来か。
他にも小さな仏像が置かれている、なかなか立派なお堂である。
解説
室町時代以前の川原領主河原高満(かわはらたかみつ)一族の墓碑群と伝承されてきた。五輪塔及び宝篋印塔(ほうきょういんとう)など約48基の古墓群である。これらの中で最も新しいと見られる五輪塔の地輪(ちりん)には、享禄4年(1531)の紀年銘があり、形態的に見ると最も古いものは15世紀の中頃の特徴をそなえている。
また、付近には高満の城址と伝えられている場所があり、川原地区の中世豪族に関わるものとして貴重である。
川原という地名だが、当地は「河原」とも表記され、「かわら」とも読まれる。かつて、かわらけ(素焼きの土器)の生産地であった事が地名の由来とされているようだ。
河原高満
川原大蔵太夫高満は、990年頃にこの地域にやってきて、この地を治めた豪族であるとされている。
このあたりの地域の神社は河原高満が建てたものや、ゆかりの神社がほとんどだと言ってもいい。
高満により創建されたといわれる住吉神社(川原大名神)
阿池姫ゆかりの池之御前神社
熊野権現に由来する池之御神社(権現神社)
熊野から来た阿砂利知行を祭神とする峯島神社
高満の菩提寺とされる大聖寺(現在は跡地で観音堂のみ)
また、川原大池の阿池姫の話はドラマチックで面白い話だ。
この話を検索すると、たくさんの話題が出てくるが、画一化されたものばかりで、この河原高満という人物が、どこからやって来たのかとか、どこの出身だとかの話は一切ない。
そこで図書館で三和町の郷土史を調べてみた。
河原氏は川原を本拠とする在地豪族と考えられるが、河原氏が 『深堀文書』に最初にでてくるのは、元享三年(一三二三)の「藤原致澄外二名連署契約状」で、これに沙弥禅覚、すなわち、河原源三郎の名がみえる。
川原村郷土史の口碑伝説の項
古老及一般ノ説ニヨレバ今ヨリ約九百年前大蔵大夫高満ナルモノ家族並二数多ノ家臣ヲ伴ヒテ本村二来リ、字徳道ナル船の平二住セシガ後二不便ヲ感ジテ字上揚ニ移リ住メリ、爾後年ヲ経ル二従ヒ漸次人口増加シテ次第二各部落ヲナスニ 至レリト云ヘリ、サレバ是等人々ヲ川原村民ノ祖先ト称シ、特二大蔵大夫高満ハ川原神社トシテ之ヲ字中堂二祭レリ
つまり河原氏の始祖は四国方面より入部したと伝えられる大蔵大夫高満であった。さらには、高満の弟に「知行阿闇梨」なる人物がいて、池の怪異を鎮めるために不動尊を背負って熊野から入部したとも伝えられている。・・
川原氏の記録類についても、『深堀文書』に記載されている程度で、その全体の姿 についてもよくわからないのである。三和町郷土史
四国からやってきたという話は、大村氏もそうだった。
なるほど。中世の長崎は、結構波乱万丈だったようだ。
四国からやってきたとされる河原高満氏。
今後古文書などで実像が見えてくることを期待したい。