古賀町 坂中権現神社
場所はつつじヶ丘西側の津屋岳の麓にある。
つつじヶ丘から北側の山へ続く道を進み、集落のある場所から別れて、山方面へ続く舗装されているが細い道を登る。
坂道は結構続き、大きなカーブの所に、壊れて斜めになっている木の鳥居を見つける。
そこにある石段を上ると、草の生い茂った広場に出る。其の奥に坂中権現神社の鳥居がある。
社殿は一段高い石づくりの玉垣(たまがき)で囲まれていて、上ると境内に出る。
両脇には石灯籠が立てられていて、其の奥に古い木板製の社殿がある。
木枠の扉から拝殿を見ると、板張りで奥に神棚があり、石像が祀られていた。
赤い前掛けをつけていたので、頭の部分をしか見えないが、頭の上にコブのようなものがあり、蓮の葉の上に座っているようだ。
蓮の上に座っているのはお釈迦様なので、祭神は釈迦如来だろう。其の横に同じように赤い前掛けをつけた石の碑のようなものが祀られている。
これは何なのか、わからなかった。
権現神社なのでお釈迦様が祀られているのはわかるが、坂中権現神社の「坂中」という名前にまつわる物が祀られているのかも知れない。
社殿を出て全体を見ても神殿はないので、神仏習合のお堂だったと思う。
境内の右手に石碑があり、それには社日大明神と書かれている。
社日(しゃにち)は、雑節の一つで、産土神(生まれた土地の守護神)を祀る日。春と秋にあり、春のものを春社(しゅんしゃ、はるしゃ)、秋のものを秋社(しゅうしゃ、あきしゃ)ともいう。古代中国に由来し、「社」とは土地の守護神、土の神を意味する。
つまり土地神様だ。
坂中とは何だろうか。
郷土誌を調べてみても、どこにも載ってない。人の名前か地域の名前か。それすらわからなかった。
もともとこの地域は、平家の落人が落ち延び、山野を拓いて住み着いたといわれ、戦国時代にはすでに「古賀」の地名だったというとある。
現在は、植木業が盛んで、複数の植木業のしごと場が点在している。
古賀という地域も広く、船石町、中里町、古賀町、松原町、つつじが丘1、2丁目、鶴の尾町、富士団地の8町がある。
古賀にはいろんな歴史があり、かなり複雑な歴史を持っている。
この場所は小山の中にあり、境内の隅にはすべり台とブランコがあった。
社殿の鳥居もステンレスで作られていて、神額も赤い下地に奉納 坂中権現と書かれている。
これらは近年のものであるけど、社殿はかなり古そうだ。
私が行った時は夏場で雑草が生い茂っていたが、違う写真を見ると、雑草が刈り取られた、スッキリとした神社が写っていた。
つまり、朽ち果てた神社でないということだ。
うーん
ただHPの情報に
山王神社
古賀町1549付近(旧 古賀村向名九重里)
九重里部落の氏神で明治24年(1891)創建。九重部落は正念部落や坂口部落と共に坂中権現を崇敬していましたが、その昔にいさかいがあって袂を分け山王権現を祭祀するようになったといわれています。広助の『丸山歴史散歩』
を見つけた。
確かに、この地域には正念公民館がある。この文によると正念部落や坂口部落は坂中権現を祀っていたとのこと。
古賀町の山王神社は行ったことがある。小さな神社だった。
山王権現とは、日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道、天台宗が融合して成立した、延暦寺の鎮守神である。 また、日吉大社の祭神を指すこともある。 ウィキペディア
とすれば、坂中権現も似たような権現様なのだろうか。
虚空蔵菩薩は地区にある津屋岳の山頂に祀られたもので、大正10年(1921)ごろに上床神社に合祀。津屋岳はその昔、この地区の豪族の城跡といわれているところから豪族の守り神と考えられます。広助の『丸山歴史散歩』
虚空蔵菩薩とは「広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩」の事で、元々は地蔵菩薩の地蔵と虚空蔵は対になっていたと思われる。ウィキペディア
なかなか「坂中」という文字は出てこない。悔しいが、今回はお手上げである。
もしかしたら、山の坂道の中ほどにあるので、坂中の権現様の事だったなんて事もあるだろう。
しょうがない。これで探索は打ち切ることにする。
ただ、この場所に神社があることは覚えておきたい。