発見 長崎日本武尊(ヤマトタケル)伝説

目次
第1章 神々の書
第2章 日本武尊
第3章 様々な「たける」達
第4章 まつろわぬ者たち
第5章 古代の長崎
第6章 神功皇后伝説
第7章 「たける」達の争い
第8章 長崎日本武尊伝説
第9章 鶴の港
第10章 大和の落人達
第11章 大いなる仮説
参考地図

第1章 神々の書

海がある国。

西の果ての国。長崎の事をこう語っても間違いではない。

西洋とアジアがちゃんぽんのように混じり合い、不思議な文化の混乱の中で「日本の中の外国」を演出している街。

しかし、長崎に住んでいる人々は誰もそれを望んではいない。長崎に来る人達の為だけの異国情緒が市内には溢れかえっている。

本当の長崎は、海であり、純日本的な田舎でしかない。

昔、それもずっと昔の話をしよう。まだ長崎を長崎と呼んでいなかった時があった。

その頃から、人は住んでいた。穴を掘り、そこを住まいとして、貝を食べ、魚を食べ、獣を食べた。

その頃住んでいた人達は、日本人だったのだろうか。

国という概念すらなかった時代だ。自由に海を渡り、勝手に住み着く。

そんな自由な時間が何千年も過ぎたある日、突然、違う国の人々が現れた。

その人たちは、仲間でもあり、敵でもあった。見知らぬ言葉を使う人々は、自分たちの事を「神」だと名のった。

そして、何百年かたった後、この自由な国は、日本という国になった。

そして、この偉大なる征服者たちの「神たち」の物語が作られた。

それが「古事記」である。  私たちが、暮らしている現代においても、この神々は生き続けている。冠婚葬祭に出てくる伝統と呼ばれている摩訶不思議な行い。

結婚式、お宮参り、七五三、数え上げれば切りがない。

伊勢神宮だが、私たちは、神様を信じていない。ただ頭を下げるだけの事である。

日本人の宗教における節操のなさは特筆すべきものがある。

さまざまな理由があると思うが、ひとつには神様の数が多過ぎるのだ。

よくギリシャ神話との共通点を指摘されるが、万物に神が宿る世界において、一神教の世界とは、その神のあり方が決定的な違いを見せる。

その最大の違いは人々を救わない神様の存在である。

日本の神々は、存在するだけなのだ。

そして、忌み事に触れると荒れ狂う。

「さわらぬ神にたたりなし」

これは的を射ている言葉なのだ。

常に、超然としていて、人間と関わりを持たない神々のいる世界の中で、人間は、怒りに触れないように生かしてもらっている。

こういう謙虚な世界観は、決して嫌いではない。

『自然に優しい人間社会』とは、本当はこのことを言うのだと思うのだが、こんな理屈は世間では通らないらしい。

そんな神様の中で、僕が大好きな神様が一人いる。

小碓尊。 

またの名を、日本武尊という。

日本武尊

第2章 日本武尊

古事記によると、この世の始まりは混沌であった。

その時は、まだ宇宙は、天と地が別れておらず、くらげのようにふわふわしていたとある。

その中から神様が生まれた。

天之御中主神という神様だ。

この神様から7世目があの有名なイザナギ・イザナミの神様である。

この神様は 夫婦であるから当然子供が生まれる。

大きな柱を中心にして二人でクルグル回るというマニアックな生殖行為の末に日本が出来た。

それから神々の住む場所を高天原といい、そこには太陽の神様である天照大神が治めていた。

そして話はいろいろあるが簡略させて頂く。

その高天原から、地上の日本へ神様が下りてきた。

その神様の名を瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)という。

この神様の子孫が天皇である。

ここから日本の国作りが始まった。

その時まで日本には、ゆう事を聞かない野蛮人が勝手に住んでいた。

その者たちを神の子孫である天皇が各地を巡り平定していったのだ。

要するに、大和朝廷と呼ばれる国を作るための苦労話である。

しかしこの物語は、8~9世紀の時代、ある程度大和国が出来上がったころ、自分たちの都合のいいように、書かれているため信用度が薄い。

初代天皇の神武から数えて12代目景行天皇の話である。

九州地方で熊襲という一族がまだ天皇に従っていない。

これを平定してくるようにと一人の王子が使わされた。

この王子が、小碓命である。

景行天皇には、王子が二人いた。

兄が大碓で弟が小碓という。

ある日、兄が朝夕の食事に出てこないので、出てくるように弟に言いつける。

弟は兄を捕らえ、腕力に任せてつかみ殺し、手足をもぎ取り、投げ捨ててしまう。

父、景行天皇はその野蛮な心を恐れて、九州に住む熊襲 征伐に出してしまう。

小碓命は、伊勢神宮に住む伯母さんの倭姫命より、衣装と剣をもらって単独で九州まで出かけていく。

熊襲の首長の熊襲建(クマソタケル)の家まで行くと、新築祝の宴会の準備をしている。

小碓命は、倭姫命からもらった衣装で女装し、宴会に潜り込んで機会を伺う。

宴たけなわのころ、熊襲兄弟に近づき刺し殺してしまう。

熊襲建は死んでいく間際に、小碓命の武勇を称え「ヤマトタケル」の名前を与えて息をひきとる。

この時から、日本武尊と称するようになった。

その後、出雲の出雲建をだまし討ちにしてやっつけ意気揚々と大和に帰ると、父の態度は前にもまして素っ気なく、東の方を平定してこいという。

また伊勢神宮の伯母さんの所へより、天叢雲剣と袋を旅の支度としてもらうが、
建は父の仕打ちにさめざめと泣き「自分が死ねばいいと思っている。」と悲しんだ。

東国へ進んでいる時、相模国の豪族にだまされて、野原で四方から火攻めに合う。

危機一髪、伯母さんからもらった天叢雲剣で周囲の草をなぎ払い、袋に入っていた火打ち石で反対に火をつけ迎え火を起こして難を逃れる。

第2の危機は船上で起こる。三浦半島から房総半島へ船で渡る時、海の神の起こす大波で転覆しそうになった。

その時、妃の弟橘姫(オトタチバナヒメ)は、自分自身を海になげうつと、波は納まり日本武尊一行は無事に渡り終える。

悲しみを抱えながらの討伐は無事に済み、尾張国(愛知県)にたどり着く。

そこで宮簀(みやす)の姫と知り合い第二の結婚をする。

日本武尊は伊吹山の神を討つため出かけていくが、この時、草薙剣(天叢雲剣)を姫の元に置いていく。

山の神は大きい白い猪の姿となって現れるが、神の使いと間違ってやり過ごす。

山の神は怒り、大氷雨を降らせる。弱り果てた日本武尊は、傷つきながらも故郷を思い、さまよい歩く。

美濃から伊勢に入った所で、力尽きる。野褒野(のぼの)という所で、国ほめの歌を歌い、若

者たちの青春を称える民謡を歌い最後に「乙女の床の辺に吾が置きしつるぎの大刀その大刀はや」と歌い終って息を引き取る。

享年30才であった。そして白鳥になり、ふるさとの山とへ飛んでいくというストーリーになっている。

この不思議な物語のさまざまな解釈が試みられている。

ひとつは、天皇の権威の強大さである。

もうひとつは、父と子のあり方である。

それにしても悲しい話である。父の言う事を聞き、行動するが報われないのである。

日本の太平洋戦争の時の特攻隊と同じ悲しみがある。

わが身が滅びるのを覚悟で、片道の燃料だけを抱え、父母の事を思いながらもお国のためと潔く散っていった英霊たちと同じである。

その若い英霊たちに国は報いてくれただろうか。何もしなかった。

ただやっつけてこいと命令しただけだった。

そんな悲しみがある。

第3章 様々な「たける」達

日本武尊とは、何であろうか。それは、征服事業の中で散っていった若い軍人たちの象徴ではないかと思えるのだ。

建(たける)という名前は数多く見ることが出来る。

それはすべて勇者に与えられた称号なのだ。

例えば雄略天皇は若建武の命といった。また、熊襲建 出雲建 など、大和朝廷の中に征服された熊襲、出雲にもいる。

いわいる軍事にかかわっている人達の総称ではないかと思う。

つまり「隊長」という呼び名に近いと思う。

ヤマトタケルとは、帝国軍隊長の事だと思われる。

ということは、たくさんの隊長がいるという事だ。

例えば帝国軍九州部隊隊長とか、四国部隊隊長とかである。

事実、建部もしくは「たけべ」といった古代朝廷にかかわりのある軍事集団がいた事は記録に残っている。

また、地方にも建部を名のる集団がいた。

建部神社とか建部郷とか地名に残っている所もある。

日本の戦国時代を連想させられる。

織田信長が、のし上がっていく時、回りの国をどんどん吸収していく。

だが信長の本隊は余り使いたくない。

そうすると、同盟を結んだ国や家来たちに、どんどん違う国を攻めさせる。

明智や秀吉は、東奔西走するわけだ。

そんな部隊を総称して「建(たける)」といったと思われる。

戦争なんてものはいつでも、どこでも一緒である。

古代であろうが近代であろうが関係ない。

地方の一青年が理想に燃え、戦争に参加する。

そして、見知らぬ地で戦死をする。

そんな悲しみを古事記は述べているのだ。

第4章 まつろわぬ者たち

熊襲という国がでてきた。

本拠地は、日向や、肥後東部(熊本県)薩摩、大隅(鹿児島県)といわれている。

同じ地区にいたと思われる部族名に隼人がある。

どちらも、未開の野蛮人だと大和朝廷側から見られていた。

土蜘蛛野蛮な一族といえば、土蜘蛛という種族がいた。

肥前風土記の中に、長崎の土蜘蛛の事が出てくる。

土蜘蛛と文字で書くとおどろおどろしいが、ツチクモ、クマソに共通するのは、クモ、クマである。

同じ意味を持つと思われる。

白鳥庫吉氏の説を引用しよう。

「クモとなぜ言うのであろうか。これはおそらくkumaの転で、古くより『くましか』『くま鷲』『くま蝉』などの言葉に表れているように、力強きものの表現としてこの言葉が使われている。

熊をくまと表現するのも熊が力強き存在であるから熊と呼んだと思われる。

つちくもは、『地の力強い神』というほどの意味をする言葉で、本来軽蔑する意味はなかったのである。」

古代において力強い表現の「くま」が、大和朝廷の喧伝により野蛮なものとしての象徴となってしまったのは、体制側のよく使う手である。

「くま」の語源については、朝鮮からきたという説がある。

朝鮮の小説家張龍鶴氏によると、「古朝鮮の建国神話で、神の試練に耐えた熊が女性となり天帝の子と結婚をして王子を生んだ。

この王子が壇君といい、朝鮮の建国の粗となった。

熊は、朝鮮語でコムといい、熊の語源となったのではないか。

また、高句麗の事を高麗と表記してコマと呼び、中世の朝鮮国家の高麗は、コウライと呼んで区別している。」とある。

「くま」が朝鮮と関係がある事は間違いないだろう。

熊襲、土くもが朝鮮系の武装集団と言い切ってしまうには疑問が残るが、大陸とつながりがある事だけは、事実であろう。

日本武尊の征伐物語の中で出てくる、熊襲建と出雲建が大陸系の部族であった可能性は強く、特に熊襲に至っては手ごわく強大な国であった事は、大和朝廷側も認めるところである。

手ごわい国とはどういう意味なのか。

熊襲族一人一人が野蛮でモンスター的だったのではない。

武力が進んでいたのだ。

つまり、朝廷側と匹敵するほどの武器技術、統率力を持っていたのだ。

朝廷側の武力の背景は大陸系の進んだ技術であり、それを駆使する事により他の日本国内の集団を打ち破ったのであり、熊襲もまた大陸系の武力集団であった可能性が強い。

古代日本において、特に九州地方は、朝鮮とは切っても切れないものがあり、古代史に興味のある方なら御存じの通り、天皇は朝鮮からきたとする江上波夫氏による「騎馬民族説」はあまりにも有名である。

中国大陸、朝鮮半島で起こった権力闘争は、様々な軋轢を起こし、権力から追われた民族が、となりの国日本に押しかけてきた事は、常識と呼べる考え方で、文化の度合いの低い日本の中で、大陸の進んだ技術を持つ大陸系の人々が、日本の中に大陸系の分国を作ったとしても不思議 はない。

つまり、中国大陸、朝鮮半島の権力闘争で逃げ去った人々が、日本の国を舞台として、新たな権力闘争に入っていたという事だ。

長崎にも、大陸の匂いを残す地名がある。

島原半島を高来郡(たかき)と呼ぶが、高来は「こうらい」とも読める。

この名は、朝鮮国家の高麗(こうらい)と、おなじ読みになる。

もちろん大陸系の民族だけがいたわけではなく、南方の国々から移り住んだ人々も大勢いたに違いない。

地名言語を研究している方々の研究を見れば、インドネシアあたりから、フィリッピン、台湾、沖縄を経て九州に上陸した人々がいたであろうと思われている。

つまり、長崎を含む九州全土が、国際化が急激に進んだ場所であったのだ。

「ハイヤットホテル」という有名なホテルがあるが、この「ハイヤット」が、隼人(はやと)の語源という説もある。

長崎の地名で、意味不明の地名や、突拍子もない伝説などは、南方もしくは北方の人々が住んでいた名残かもしれないのだ。

第5章 古代の長崎

長崎で、古事記の語る古代の匂いのする場所はいがいと多い。

もちろん神社はほとんどそうである。

ただキリスト教徒の神社仏閣の焼き打ちがあったり、明治政府の廃仏毀釈運動があったりしていて、現在祀られている神様の由来を鵜呑にするのは問題がある。

こじつけや、強引な推理をする危険性を注意しながら、長崎の古代を探険してみよう。

前述のヤマトタケルの文章で「建」の軍事集団説を参考にすると、たけのつく地名に関連する「たて」も含めると、長崎市内の地名に、「立 山」「立岩」「健山」「立神」どがある。

たての読みを漢字で当てると、館 舘 盾 竪 があり、たけの漢字を捜すと威 武などイメージとして武力など戦争に関係のある言葉が多い。

もちろん、立てるとか植物の竹にかかわる地名も半分以上あるで あろう。

だが、健山すなわち館のある山に、長崎甚左衛門が城主としていたという史実もある。

つまり、たけの名がありそれが武力を象徴するという事は、「建」が長崎にもあった事の証明にもなる。

つまり、古代武力集団が長崎にもあったのだ。

ただ古代の長崎市は、入り江が深く、今のような平地部は非常に少なかったので、現在の長崎港付近ではなく、時津町とか諫早とかに軍隊があったのであろう。

そうすると、大規模な軍隊は諫早などの平地部、小さい集団は山の上等に集団を構えていたに違いない。

長崎市の古代遺跡状況を見てみると、重要度の高い遺跡は数少ない。

地形的に平地が少なかった事が原因であろう。

市内で言うと、城山、竹の久保に貝塚がある。

これも、人が住める集落があったというだけである。

西ソノキ半島には、海岸沿いまたは島に遺跡が点在している。

特に串島遺跡(大瀬戸町の小島)から出土された石器は、外洋沿岸の暮らしを物語る資料として注目されている。

野母半島に深堀遺跡が発掘されている。

その他沿岸の 砂丘に遺跡が多い。茂木、千々、脇岬、にもあるが正式な調査が出ていないため明言を避ける。

牧島町に曲崎古墳というのがある。

「縦穴系横 口式」という得意な構造を持っている遺跡である。

またこの曲崎古墳の中で「たこ壺」系の遺跡についても、同列にあるのは対岸の大門や五島列島若松町、北松浦郡の大島において認められ、いずれも海女の活動する集落を背景にした古墳群と考えられている。

長崎の外洋に面した場所での集落が古代にあった事は確認されている。

この傾向は長崎が開港される近年まであったのではないだろうか。

つまり、集団を形成していたのは、茂木、牧島がある橘湾沿いと、野母崎の一部、そして外海、大瀬戸方面である。

現在では、発展から取り残された田舎が、古代では人が集まっていた場所だったのだ。

上記の場所に共通する事がある。

釣りをする人ならわかると思うが、長崎での格好の釣り場なのだ。

つまり、魚影の濃い場所なのだ。

当然といえば当然だが、海を生活の場としている種族の集落は、魚影が濃い場所にあったのだ。

集落があるならば、必ず文化が存在する。

この現在も釣り場となっている場所で、共通する文化というと伝説であろう。

第6章 神功皇后伝説

そんな都合のいい話が長崎にあるのだろうか。

実は、あるのだ。神功皇后伝説である。

神功皇后とは実に不思議な人物である。

架空の人物だという人もいるし、実は卑弥呼なのだという人もいる。

概略を述べると、仲哀天皇が熊襲征伐に向かうが、北九州で死んでしまう。

神功皇后妃の神功皇后は、熊襲と新羅は同盟を結んでいるので、朝鮮の新羅を討つべきだと信託を受け、新羅に軍隊を向ける。

その時妊娠をしていたのが、石を腰に二つはさみ、構わず出発する。

海を往くと大魚が現れ、神功皇后軍隊をあっという間に新羅にたどり着かせた。

これを知った新羅の王は恐れ、神の軍隊にかなうわけがないと言い降伏した。

回りの朝鮮の国々も、それに従った。

新羅を征伐した神功皇后は、筑紫で王子を生み、家来の武内宿禰ともに政治を行ったとある。

事実と伝説が入り交じっており、どこまで信用していいのかわからないが、日本の朝鮮進出の旗がしらとなっている。

この神功皇后の伝説には様々の人が学説を述べているので詳細を書くのを省く。

この皇后が、外海の島「池島」に立ち寄ったという「鏡の池」「神の浦」の伝説があり、その

他では、式見 神楽島長崎港入口付近の、神の島、皇后島、茂木の「裳着」、飯香の浦、甑岩(こしきいわ)などある。

いずれも古代集落があった所であり、大和朝廷の勢力がゆきわたっていた証拠であり、海人族を主体とする小さな部族では、今まで存在していた伝説の主人公を神功皇后とすり替えるだけで、服従の意志を示すことが出来たのだ。

その証拠に、いずれの神功皇后の伝説も、深い意味を持たず、ただ単に神の名前がついている地名のみが、神功皇后伝説として残っているだけである。

古事記には他にも有名な神様がたくさん出てくるが、長崎には、めぼしいものが残っていない。

僕の好きな日本武尊の伝説も皆無である。

ちなみに日本武尊の皇子が仲哀天皇である。

ということは、神功皇后の義理の父親がタケルなのである。

第7章 「たける」達の争い

他の地域はどうかと言うと、島原に「たける」の話が残っている。

猛島神社島原駅の近くの海岸にある猛島神社がある。

祭神は、五十猛尊(いそたけるのみこと)である。

島原の古称は五十猛島とも言うとある。毎年十月九日から十一日に行われる島原ぐんちは、この神社の祭りである。

島原は、古代においては、大きな集落があったと言われている地域である。

古墳も数多くあり、邪馬台国がここにあったと唱える人もいる。

長崎半島と島原半島の間にある橘湾にこんな伝説が残っている。

ある時、天草の鬼池と野母の川原の池の竜が勢力争いをした千々石湾である夜、争いの大小の

火玉が上がった。

そして川原の池の竜が勝った。

竜とは、海人族の守り神である。

すなわち、天草地方と長崎半島の間で勢力争いがあった事だけはわかる。

そこに朝廷側が関係しているかは定かでないが、島原の古称は五十猛島とも言うとあるので、

熊襲の本拠地に近い天草側が、熊襲系たける集団で、長崎半島の種族が朝廷側であった確率は高い。

熊襲系「天草たける」の反撃に、長崎タケル軍団が応戦という形で橘湾で海戦を繰り広げたのであろう。

そして長崎たける軍団が勝った。伝説では、そういうふうに取れる。

とすれば長崎半島に、きっと「タケル伝説」が残っているはずだ。

その不確定な伝説を元にして長崎のタケルを捜してみた。

第8章 「長崎日本武尊伝説」

長崎の茂木の近くに甑岩神社がある。

そこの祭神が日本武尊である事を文献によって発見したのだ。

急いでもう一度、甑岩(コシキイワ)を調べてみた。

この辺りは、神功皇后伝説が残っている場所である。

神功皇后が遠見をした後、そこで飯を食べたとある。

その時、甑(こしき)という蒸し器で食事の用意をしたので甑岩といわれている。

そして、目の前は大きな千々石湾である。

そこに甑岩神社というのがある。

神社が大きな岩の中に鎮座している事で有名である。

日本武尊は、二度目の東方遠征の時、走水の海で大嵐にあう。

その時妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)は、海に身を投げて嵐をなだめ、日本武尊を助ける。

特に、日本武尊に関連するものはない。

ただ、弟橘姫を海で失った悲しみを癒すために、海の見える場所を選んで神社を立てただけだと思った。

目の前は、偶然にも橘湾という。

そして、この橘の名称は、千々石出身の日露戦争の英雄陸軍中佐「橘周太」に由来している名前で大正8年からこう呼ばれていると記録にある。

千々石村に「橘」姓がある事も、橘湾がある事も、何やら因縁めいている。

だが、記録どおりとすると、大正8年以前は、この湾を何と読んでいたのであろうか。
その記録はない。

とすると、橘湾という名称は、古来より、此処にあったということに当然なる。
明かに、大正軍事政権の、宣伝のために英雄の名前を持ち出し、記録を書き加えただけの話であろう。
この「橘」という名前が、上述の弟橘姫の話から、来ていると思われて仕方がない。

次に、この千々石町付近に「吾妻」町がある事に気がついた。

「吾妻町」は吾妻岳に由来する名前である。

この地域は、条理遺構という遺跡があり、古代の律令制度があった事を示している。

古事記によると、日本武尊は弟橘姫を失った悲しみのあまり、帰途に足柄山の坂で、「吾妻はや(わが妻はなあ!)」と嘆いたとある。

哀調を帯びた文学的なシーンである。

吾妻の地名のある山に向かって祀られている姿も印象に残る。

ただこれらはすべて、刑事ドラマによく出てくる「状況証拠」というものである。

「物的証拠」がないと、ここの地になぜ日本武尊が祀られているのか解明出来ない。ところが「物的証拠」に近いものを発見した。

ヤマトタケル伝説日本武尊はこの後、二度目の妃をもらう。この姫の名前が宮簀(みやす)姫である。

これはもしかしたら、宮摺(みやずり)の事ではないだろうか。

宮摺と書いて(みやす)とも読むのだ。

宮摺とは、野母半島の茂木町よりにある町である。
この海岸線の中で 一番砂浜の多い場所である。

現在は、海水浴場となっているが、砂浜が 多いという事は、古代集落があった可能性の高い場所でもある。

ここには「かまど神社」があり、裳着(茂木)神社の末社となっている。

同じ文化のつながりを持っているのだ。

こうなると後は進むだけだ。

日本武尊は、伊吹山の神を討つ為、宝剣草薙剣を宮簀姫の所に置いて出かけていく。

その為、山の神の怒りをかわす事が出来ず、大氷雨にあい満身創痍となり、伊勢の野褒野(のぼの)という所で悲劇の最後となる。

野褒野(のぼの)というのは、野母半島の野母のことだ。

野母崎には、紀州の熊野から、流れ着いた漁民が野母の漁民の始まりだと伝説に残っている。

紀州というと和歌山県である。

熊野というのは、霊地として皇族が参拝する所で有名な場所だ。

熊野本宮大社 熊野速玉大社熊野那智大社がある。

出雲と同じように、大和朝廷成立の中で、重要な位置を占めており、神話にも多く登場する。

古書によると、野母半島の「母が浦」の名前のいわれが残っている。紀伊の熊野から苦難の末にこの地にたどり着いた。

それがはうように上がってきたので「はうが浦」といった。

それが今日の「母が浦」となったという。

野母崎いったいの住民の故郷が、和歌山県の熊野であるならば、熊野の地の 野褒野(のぼの)の名称が野母の地名の起源であるということは、99%事実であろう。

どの歴史の本のなかにも、このことは書かれていたが、それをヤマトタケルと結び付けたものはない。

だが、ここまで来ると確信に近い。

甑岩から野母まで日本武尊の話が隠されていたのだ。

この地は、長崎半島の西の端にあたり、この先は、果てしない海原である。

陸地を現世、海をヨミの国とすると、野褒野(のぼの)で命を果てる、ヤマトタケルの心理的舞台に、半島というのはぴったりである。

即物的な現代人よりも、言霊を信じ、抽象的なオリジナリティあふれたセンスをもつ古代人達は、この長崎半島を故郷の英雄の物語になぞらえて地名を命名し、この地を第二の故郷とすることを、心に深く決めたのであろう。

そうなると、茂木という地名も納得がいく。

茂木は古称を裳着と書く。

茂木(裳着)の名称の由来は、一般的には、神功皇后が「もみの浦」と名づけた説、もしくは衣のしたばかま(裳)をつけた説などある。

または、茂木の字のごとく木がたくさん茂れるところという説もある。

この港の付近には縄文、弥生の遺跡が発掘されている。

ここに裳着神社いうのがある。キリシタンの焼き打ちにあって一度燃えている。

1626に、領主松倉豊後守重政が、八武者大権現と称し再興した。

1674年、京都卜部家から唯一神道の相伝を受けている。明治元年(1868)に正式に裳着神社と改名している。

神功皇后伝説が残っているので起源はかなり古い事は確かである。

明治元年の廃仏毀釈運動というのがある。

これは王政復古、神武創業の初めにもとづき、祭政一致の制度が回復された。

要するに、仏と神様がごっちゃになっているのをすっきりさせる事と、天皇家を頂点とする組織の再構成である。

その結果、今まで京都吉田神社(卜部家)が一番であったのが、伊勢神宮が1番になった。

そして吉田神社は、地方の一神社になってしまった。

その結果、それまで、仏と神を一緒に祀っていたのをやめさせた。

例えば権現様というのは、仏様がそこにあり、それが仮に神様になって現れているというファジーな考え方である。

これを本地垂迹的な思想と呼ぶが、それを強制的にやめさせたのである。

そのため神社の中で神様が変わってしまった可能性がかなりあり、現在祀っている神様が昔からそうかと言うとそうでもない所があるので要注意である。

しかし、この茂木の地には、古くから神社を祀る集団がいた事だけは確かである。

茂木は、昔は重要なポイントだった。

そして、茂木の名前の由来に、神功皇后が、衣のしたばかま(裳)をつけた。という、とってつけたような説よりも、熊襲建を討つ時に日本武尊は女装をしたという由来のほうが、状況証拠から言うと、真実に近い。

古事記にも、タケルが「御衣御裳(みもみそ)を着る」との記述がある。

物語の重要な場面でもある。力では、とうてい勝てない相手に、知恵で勝負するタケルの知力を称えるシーンである。

裳着というネーミングは、ぴったりである。

山々はどうだろう。宮摺町に「熊ヶ峰」がある。

標高569m 長崎の町と回りの山々を一望の下に見渡すことが出来、山の名の由来は、昔熊が棲息していたという事で 熊が峰というらしい。とある。

長崎に熊が居たかどうかは定かではないが、別の意味にも解釈が出来そうである。

熊というキーポイントが、ここに、あったということが、作為の匂いを十分読み取れる。つまり、意図的に、熊が峰と付けたのであろう。

それは、クマソの象徴でもあり、熊野の変形でもある。

熊が峰の続きに悪所岳という山がある。

山の神の怒りに触れて満身創痍になる。

まさに悪所の山を日本武尊は進んだのだ。

また近くに烏帽子岳があった。

これは、日本武尊に命令をした父親の景行天皇の事かもしれない。

烏帽子とは天皇を暗示しているからだ。

よく出来過ぎていると思う。

古事記の中の悲劇の王子、日本武尊をひとつのテーマとして、甑岩から野母までの地名を創作していたのだ。

更に、神功皇后伝説が、そのカムフラージュとなっているのだ。

古事記が完成され、日本書紀が出来上がり、風土記を提出させた大和朝廷の力は、完成の域に達していた。

「たける」という古代武力集団も解体され、神話の中にヤマトタケルという一人の人物に集約されている。

古代の古戦場であった場所も、新しい時代の波の中に、しだいに消え去っていった。

特に日本武尊の話の中には、天皇に向かって恨めしげな言葉を吐くシーンもあり、また悲しみに満ちているので、体制側とすれば、勇壮な神功皇后の伝説を優先させたかったのであろう。

もちろん、日本書紀にある日本武尊は古事記とは違い、勇壮な伝説に作り替えてあるので、日本武尊そのものを抹殺するわけがない。

だが、2人の「たける」より、神功皇后の方がシンプルで力強いのは確かである。

時の流れが日本武尊から、神功皇后伝説に変えさせていったのであろう。

もちろん、上記に上げた地名に異説がない訳ではない。

宮摺は、当地にあった「かまど神社」がキリシタンによって破壊されたのを1626年再建されたのだが、その際の「宮修理」が転化して宮摺りとなったとある。

また、野母は、南方系の種族の言葉で、沼の転化ではないかという説がある。

僕の述べている説が絶対正しいとは思わない。

最初からあった地名にしては出来過ぎているので、所々はつけ加え又は呼び名を変え、仕上げていったに違いない。

いつの時代の人かわからないが、すばらしい創作である。

謎が解けた今、唯々感心するばかりである。

ただ、日本武尊の話は、日本書紀と古事記に載っているが、この場合は明らかに古事記の方の話のようである。

それは古事記の話の方が、悲劇的であり、ドラマチックであり、隠し名のプロデューサーの意図にあっていると思えるからだ。

もう一度、最初から検討し直してみると、やっぱりそうかと思った。

甑岩の日本武尊の話だ。

甑岩の『こしき』とは、『古事記』の事だったのだ。

このプロデューサーは、最初にはっきりと題を示していたのだ。

古事記の日本武尊の話だと。

第9章 鶴の港

江戸時代の学者は、長崎港の事を「神応港」「鶴の港」といったとある。

「神応港」のいわれは、応神天皇の事ではないだろうか。

長崎に神功皇后の伝説がある事は前述したが、その皇子が応神天皇である。神功皇后が、王子の後ろ盾として69年間摂政をつとめ百歳で崩御したとある。

神功皇后と、応神天皇がともにいた時代はかなり長かったのである。

それゆえ二人の名前の一字ずつとり、神功・応神。つまり神応と呼んだのではないだろうか。

江戸時代に学者の間で、神々の名前を港につけるほどだから、かなり神功皇后説は定着していたと思われる。

また、古事記、日本書紀の話が長崎の地名につけられる下地が十分 あった事の証明になる。

ちなみに、金比羅山の事を瓊杵山(ニギ)と呼んでいた事も残っている。

瓊杵とは、天孫降臨の主役「瓊瓊杵尊」(ニニギノミコト)の事であろう。

瓊の浦(たまのうら)の語源とも思われる。

稲佐山にしても、スサノウの命が高天ケ原から追い出された出雲の地の砂浜の名前と同じである。

中世の長崎は、古事記の神々の名を与えられた、神々の港だったのではないだろうか。

これが、一般的には、広まらず学者の間だけで呼んだ、遊びにも似た事だったとしても、有識者の中で「神々の感覚」があったという事だけは言えるであろう。

「鶴の港」と呼んでいた事に、疑問が残る。

僕なりに仮説をたててみた。

現在のように埋め立てられていなかったとしても、どうしても鶴に見えないのである。

昔は飛行機がなかったので、高い山からしか長崎港の全貌が見えないはずである。 細長い、入り江の部分が首だと言われると納得もするが、翼の部分がないのである。「鶴」の字がつく地名は「鶴の尾」というのがある。

長崎バイパスの出口付近にある。

この場所が尾っぽとするなら、首はずっと南の方にあるはずだ。

野母崎半島の中間地点に「土井首」「毛井首」がある。

crane鶴とは、長崎半島を首に見立て、胴体が長崎市内、両翼が、飯森町、諫早付近と西彼杵郡の長崎市寄りの地。

そう見ると、なるほど「鶴」に見えてくる。

これは現在の正確な地図を元にして述べているので、「鶴」に見えない事もないという程度だが、大昔の地図では、長崎をどういう風に描いたのだろうか。

きっと「鶴」が両翼を広げて飛んでいる姿そっくりの地図があったに違いない。

第10章 大和の落人達

日本武尊の話は、大和朝廷の編纂により作成されたものだ。

熊襲の話は九州だが、後半は東国を舞台にしたものだ。

それが、なぜ西の果ての長崎に残っているのだろうか。

野母崎には紀州の熊野の漁民が漂流したどり着いた伝説が残っている。

紀州といえば大和朝廷の本拠地である。

さまざまな海人族が、海流の力を借りて、移動したらしいのだ。

それは現在僕たちが思っているより頻繁に交流が行われていた形跡がある。

また、国家建設の動乱の時である。海人族の交通網を使って、権力闘争に破れた者達も、ちりぢりばらばらに遠方へと落ち延びたに違いない。

長崎は西の果てといっても、上記述べたように、各民族の交差点として国際化がかなり進んでいたし、南九州には大和朝廷の反勢力として熊襲、隼人と呼ばれる国家が頑張っていた。

そうなると、長崎に大和朝廷の反勢力の文化人、軍人たちが逗留していた可能性もある。落人たちの故郷にある、地名、文化、伝説が長崎に残っていたとして も不思議ではあるまい。

または、意図的に創作した可能性も高いのだ。

弱り果てた日本武尊は、傷つきながらも故郷を思いさまよい歩く。

美濃から伊勢に入った所で、力尽きる。野褒野という所で、国ほめの歌を歌い、若者たちの青春を称える民謡を歌い最後に「乙女の床の辺に吾が置きしつるぎの大刀その大刀はや」と歌い終って息を引き取る。

享年30才であった。

そして白鳥になり、故郷大和の方へ向かって飛んでいったとある。

白鳥が「白い鳥」と解釈すると、この大いなる仮説が完結する。

第11章 大いなる仮説

この白い鳥「鶴」の格好をした半島に、日本武尊の霊である白鳥がダブって見える。日本武尊のストーリーは、この長崎半島でなければならなかったのだ。

権力闘争に破れた、中央の人々は地図をたよりにこの地へ流れついた。

そして、この白鳥の半島を第2の故郷とする決意が、故郷の英雄タケルの話を元に、この地にさまざまな地名をつけた。

現在、長崎人気質といわれている、九州人というイメージからややかけ離れた独特のものを感じるときがある。

それは、もしかすると古代中央の人々の気質を色濃く、残しているせいかもしれない。

長崎の「たける」たちの戦い。

その中で戦死した若者がたくさんいた。

愛する人達との別れ。

権力への忠誠の証しとして、悲しみを乗り越えて戦場へ出かけていく人々。

中央の権力闘争から落ち延びた人々。

さまざまな「たける」の話が混じり合い、日本武尊となった。

日本武尊の悲しみは、愛する人を失った悲しみであり、父、景行天皇(権力)からうとまれた悲しみであった。

すべての悲しみを、白鳥の格好をしたこの西の果ての半島にうずめ、悲しみを薄れさしてくれる時の流れだけを待ち続けていたに違いない。

だがこのストーリーは、大和朝廷の勢力が浸透するにつれ、そして時代が変わるにつれ、神功皇后の伝説へと転嫁していく。

そして現在、甑岩神社に祀られている日本武尊だけが1人残されているのだ。

勇ましくて悲しい話がここにもあった。

大昔から人は悲しみを繰り返していった。

人は進歩しない。ただ変化だけを繰り返していく。


著 竹村倉二

参考、引用文献
日本史探訪-角川書店 わが町の歴史散歩(1) 熊 弘人 – 新波書房 日本の歴史-毎日新聞社 長崎県の山歩き- 林 正康- 葦書房 長崎辞典-長崎文献社 私説風土記- 松本清張 -平凡社 虚構の国日本-張 龍鶴- 現代出版

コメント

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