長崎と神功皇后伝説
古代史のスターの一人に神功皇后がいる。
妊娠しているのに、おなかに石を抱いて出産を遅らせ、朝鮮半島を制圧したといわれる女性である。
江戸時代までは、卑弥呼が神功皇后であると考えられていた。
神功皇后の実在は疑われているが、史実と一致する部分もあるため常に研究対象になっている歴史上の人物である。
神功皇后にゆかりのある土地は九州に多くあり、さまざまな伝説が残されている。
そして長崎にも多く語りつながれている。
長崎の伝説
神宮皇后が衣装を着けたので裳着(茂木)
神宮皇后が飯を炊いたからこしき(炊飯道具)岩、
そのご飯の香が届いたので飯香ノ浦(いかのうら)
神宮皇后が戦勝の祝舞をしたから祝島(伊王島)
神宮皇后が長い夜だなーといったので長与
火打ち石のような赤白い「 鎮懐石」は山王神社に預けられ、安産のお守りとして崇められている。
式見の沖にある島を「神楽(かぐら)島」という。神功皇后 が神楽を奉納させ、帰還を祝い旅の安全を祈った。その式を見ようと、村人が集まったので「式見」という。
神浦(こうのうら)三韓を征伐しての帰途、神浦に寄港。上陸して浜辺の石に腰かけ休憩されたという。それを“御腰かけ石”といい、皇后がその石に腰かけ「この浦は……」といわれたことに由来するという。
私も何本か神功皇后関係の文章を書いている。
長崎の磐座達 立神は巨大な男根
http://artworks-inter.net/ebook/?p=2273新発見 白鳥王子ヤマトタケル伝説
http://artworks-inter.net/pc/2016/01/17/post-37/発見 長崎日本武尊(ヤマトタケル)伝説
http://artworks-inter.net/pc/2016/01/18/post-93/
長崎の神功皇后伝説は、神功皇后の義理の父親、日本武尊の伝説と不思議一致する地名が多い。
つまり、長崎に残る日本武尊伝説を意図的に隠したのではないかという考えにたどり着いたのだ。
しかし、思考もそこまでで、そのプロデューサーまでたどり着けなかった。
そこで、再度長崎神功皇后伝説を洗い出すことにした。
古代史から取り残されている長崎
「鉄のカーテン」
これは「まぼろしの邪馬台国」の著者、宮崎康平氏の言葉でもある。
あれほど精力的に動き、盲目でありながら新発見も多いのに、学会の反応は極端に少ない。
神功皇后伝説は九州の各地に残っている。
福岡県が主だが、長崎県壱岐市の東風石、佐賀県嬉野市には皇后が外征の帰途に温泉を発見した伝説がある。
しかし、宮崎や鹿児島、熊本は無い。
南九州には、熊襲、隼人といったヤマトと一線を引いている国があった証拠である。
長崎、佐賀は肥前である。
大和側から見れば土ぐもの棲家とされて、熊襲、隼人の仲間だった可能性がある。
肥前が土蜘蛛の棲家と書かれているのは、景行天皇の九州巡幸の日本書紀の記録である。
しかし、古事記には一切書かれていない。
虚構の天皇たち
景行天皇は、実在が怪しいとされている天皇の一人である。
それは、「タラシヒコ」という称号だ。
12代景行・13代成務・14代仲哀は「タラシヒコ」という名前がつけられている。
そして、これがおかしいとされている。
「タラシヒコ」は7世紀前半の34代舒明・35代皇極(37代斉明)につけられているからだ。
天皇の名前は、そのつけられ方でグループ分けされている。
「タラシヒコ」グループは後年の名前で、早い時期の天皇たちは創作されたとされている。
その架空の天皇が景行天皇である。
という事は、九州巡幸はなかったという事になる。
ただし、万が一実在していたら4世紀のことだとされている。
なんにしろ、不確か過ぎる記録なのだ。
神功皇后伝説
今回の神功皇后伝説にしても、長崎に結構たくさん残っているということは、大和の勢力範囲にあったと推測できるのでないだろうか。
現に、大和のシンボルともいえる前方後円墳も、彼杵と雲仙に存在している。
東彼杵町歴史公園にある長崎県下最大級の「ひさご塚」古墳 築造年代 推定5世紀
http://freephoto.artworks-inter.net/hisago/kaisetu.html
雲仙市守山大塚(もりやまおおつか)古墳 推定、古墳時代
http://freephoto.artworks-inter.net/moriyamaootuka/kaisetu.html
神功皇后伝説は3世紀から4世紀ではないかといわれている。
邪馬台国の卑弥呼の死亡は西暦248年と推定されている。
少し年代がずれているが、邪馬台国がたぶん北九州、もしくは長崎、佐賀に存在していた時と重なるのだ。
これに関しては歴史の事実が、ある程度証明している。
三韓征伐の新羅、百済、高句麗の事である。
238年卑弥呼、初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた。
247年倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。
魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢を授与。
251年または371年3月、百済は日本に朝貢した。
262年または382年葛城襲津彦を遣わして新羅を撃たせる。
倭国や邪馬台国は、決して架空ではない証拠である。
神功皇后と邪馬台国
記紀には邪馬台国の記述は無い。
これに関しては、さまざまな説がある。
しかし、邪馬台国と大和の時代が重なるのも事実である。
となれば、長崎に神功皇后伝説があるという事は、2~3世紀に肥前、特に長崎地域に、大和もしくは邪馬台国の勢力が及んでいたという確証になるはずだ。
土ぐもの女酋長たち
肥前国風土記に登場する女性土蜘蛛は5名いる。
1.佐賀県佐賀市大和町東山田の大山田女(オホヤマダメ)・狭山田女(サヤマダメ)
2.松浦(まつら)郡の海松橿媛(ミルカシヒメ)
3.佐賀県多久(たく)市東南部の両子山(ふたごやま)、あるいは近隣の山の八十女人
4.彼杵(そのき)郡の速来津姫(ハヤキツヒメ)
5.長崎県彼杵地域の浮穴沫媛(ウキアナワヒメ)
である。
狭い地域に5名もの女性酋長、いや卑弥呼と同じ国王かもしれない女性がいたという事実がある。
これは神功皇后の伝説とシンクロしていると考えたほうが筋が通る。
長崎の周賀(すか)の郷は長与地域
西彼杵郡長与町に神功皇后伝説がある。
彼杵郡にある地域で周賀(すか)の郷という場所がある。
記録にあるだけで、場所は比定できていない。
しかし、神功皇后伝説イコール土蜘蛛の酋長だと考えると、推理の糸口が見える。
男の酋長の鬱比表麻呂(ウツヒオマロ)の伝説がある。
神功皇后が新羅を征伐するためこの郷に来たとき、船を郷の東北の海につないでおいたところ、船をつなぐ杭が、磯になってしまった。高さ六十メートル、周囲三十メートル余り、岸から一キロ余り離れた、巨大なもので、高く険しく、草木が生えなかった。さらに、従者の船は風に遭って漂い沈んでしまった。ここに、鬱比表麻呂という名の土蜘蛛がいて、その船を救った。よって救(すくひ)の郷という。周賀の郷というのは、これが訛ったものである、という地名由来。
http://jyashin.net/evilshrine/gods/tsuchigumo_shrine/tsuchigumo_ancient_02.html
この文には、方角がある。
船を郷の東北の海につないだとある。
「郷の東北の海」というと大村湾か有明海しかない。
東北の海につないだという事は、港に泊めたのではなく、東北の方角のどこかに留めたということになる。
これは、目的地の近くの島か岩礁に船をつないだということになる。
となれば、小島の多い大村湾ということにならないだろうか。
そうなれば大村湾の左側(西)か下側(南)だ。
古代神功皇后の伝説が残っているのは、長与である。
長与が周賀(すか)の郷である確立は、きわめて高い。
もし周賀(すか)の郷が、諫早までを含めるのなら「郷の東北の海」は諫早方面の有明海かもしれないとおもう。
船を郷の東北の海につないでおいたところ、船をつなぐ杭が、磯になってしまった。
この記述は有明の干潟の干潮の差の大きさを表していると思えるからである。
矛盾する伝説
記紀に書かれている神功皇后の三韓征伐に、長崎の長与は出てこない。
だから、伝説というより作り話ということになる。
しかし、三韓征伐の話じたいフィクションなのである。
ただ、ここにある程度の法則が存在している。
西九州であること。
大和側であること。
この縛りがある。
さらに主人公が女性であること。
この女性であることの縛りは、日本書紀に書かれていない地域以外である。
邪馬台国連合と長崎
これは間違いないだろう。
長崎以外にもいろいろ伝説があるが、やはり女性酋長がいる地域だと推測される。
残念ながら推測なのだが
邪馬台国と神功皇后の時期が重なることを考えれば、
各地の神功皇后伝説が、各地域の女性酋長の活躍であることは間違いない。
という事は、長崎も邪馬台国連合国の1つだったということになる。
まあ、魏志倭人伝に書かれている国の一つに長崎地域を比定している人は少ないが、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国の一つが長崎だと、私は思う。
宮崎康平さんの「まぼろしの邪馬台国」では、諫早から雲仙の間が邪馬台国ではないかと述べている。
そしてその本は過去大ベストセラーになっている。
世間の人たちは、島原、諫早に邪馬台国が存在するという可能性を決してあざ笑ってはいないのである。
素人の考えというだけではなく、筋が通っているのだ。
九州の学者の人たちは、その可能性を勇気を持って調べてほしい。
長崎の古名 浮穴郷の場所
いまだに謎なのが、周賀(すか)の郷と浮穴郷の場所である。
周賀の郷は、時津、長与、諫早地域と推測がつく。
しかし、浮穴郷は浮穴沫媛(ウキアナワヒメ)という、穴とか沫の文字のイメージで、洞窟や「うき」の地域を浮穴郷としている方が多い。
たとえば、七ツ釜などを候補としてあげている。
しかし、「彼杵」をひさご塚のある彼杵駅付近だとすると、その北側に浮穴郷があるとしている。
とすれば川棚付近が浮穴郷となる。
各地の浮穴
浮穴は長崎だけではない。
愛媛県(伊予国)にあった郡に浮穴郡(うけなぐん)という場所があった。
奈良県大和高田市田井には浮孔駅というのがある。
地名サーチによると1位:愛媛県 2位:新潟県とある。
また愛媛県の地名「浮穴郡」についての説明が
羅漢窟:この岩洞を一書に浮穴郡の起因なりと録せるに因り、近年改めて浮穴村の名を立つ、浮穴は河内国より移せる号なれば、この岩洞に関係なし。
http://www.dai3gen.net/ukena.htm
長崎の浮穴郷の文字の意味にこだわれば、場所は決められない。
近畿邪馬台国説は、南を東の方向間違いとして片付けているが、僕は許せない。
「浮穴郷」という地名の由来が、愛媛県の「浮穴郡」か奈良県大和高田市からの移住者によるものだと考えたほうがいい。
現実にそんな場所は多い。
長崎市に平戸小屋という町がある。平戸藩のサムライ達が住んでいたからである。
こういうことを書くとキリがないのだが、文字や名前にこだわると、歴史そのものの解釈が大きく違ってくる。
現在の地名が変わってたとしても、別に問題はないと思うからだ。
もし川棚地域に浮穴郷があったとする。
川棚の隣は佐賀の嬉野である。
嬉野には神功皇后伝説がある。
皇后が外征の帰途に温泉を発見した伝説が残る。その時に「あな、うれしの」と言ったのが嬉野の地名の由来。
神功皇后が嬉野に行くとすれば、川棚が一番近いのだ。
それなら港には人が集まり、集落を形成していても不思議はない。
長崎市の福田や式見にも神功皇后がある。
これはどんな意味があるのだろうか。
古代の長崎は隼人地区
結論とすれば長与より南、たとえば長崎港や長崎半島は、隼人や熊襲の領域だったのかと考える。
その理由は、五島に隼人らしき人々が住んでいた記録もあるし、野母崎半島は歴史があるのに肥前風土記から無視されている。
陸で区分けするのではなく、海でくくれば、五島、野母崎、天草は一つの文化圏としてみる事が出来る。
そして大和政権が熊襲、隼人を手なづけた時期に神功皇后伝説が入り込んできたのではないかと推測されるのだ。
長崎の神功皇后伝説は、大和政権の浸透度と、過去の都市の証だと思う。
火の無い所に煙は立たない。
これは事実である。
そしてそれがどんなに突飛でも、事実である場合が多い。
これが、私の本音である。