岩屋神社 仏、神、鬼がいる原始信仰の場
岩屋神社は475.2mの岩屋山のふもとにある神社で、何度も訪れている。
この神社の雰囲気や古いたたずまいに惹かれている。
また、この場所を訪れたのは、超広角レンズや水中でも映るというトイカメラを買ったので、そのテストも兼ねている。
謎の岩屋神社
https://artworks-inter.net/ebook/?p=278古代長崎の繁栄は岩屋神社と元村郷
https://artworks-inter.net/ebook/?p=3044
岩屋神社の魅力は、まず長崎で一番古い創建だという事である。
岩屋山は祭神は健早須佐之男命。社伝によると和銅年間(708~715年)行基によって建立されたと伝えられるが、創建時期は不明。
案内板にはそう書いている。
この建立された年代を鵜呑みにはできないが、古い事は間違いない。
ここに行基の名前が記されている。
行基は奈良時代の日本の僧で、この時代の仏教は国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代である。
その禁止された事をやぶり、畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず困窮者のための布施屋、道場や寺院、橋を作ったり、ため池を作ったりと大活躍をした異色の僧である。
その業績により、岩屋神社の創建に係ったという伝説が生まれたのだろう。
神仏習合
この神社の特徴は、神仏習合がしっかり残っている事と、長崎の山岳宗教の大元になっていたという事である。
神仏習合は明治まで続いていた、日本宗教の本当の姿である。
ウィキペディアによると、最初は仏教が主、神道が従だとあるが、古い神社に行けばその逆が多いようである。
参道の途中にある六部堂は六十六部の略で、六十六回写経した法華経を持って六十六箇所の霊場をめぐり、一部ずつ奉納して回る巡礼僧のことを言う。
盛んになるのは室町時代からとされているが、岩屋山が全国66ヵ国の霊地の一つにされている事に着目したい。
岩屋神社の参道を歩き、その入り口に立てば、石の鳥居の奥に仏教の山門が建てられている。
さらに、岩屋山登り口の右手の石段の上には、八坂神社があり、そこには様々な仏像群が安置されている。
これらの仏像は、岩屋山登山道のいろんな場所から拾い集めて、此処に安置されている。
その仏像の種類は様々で、その中には太郎坊と呼ばれる天狗の祠もある。
また、この八坂神社の前には、岩屋山稲荷神社があり、その上には石窟に祠が安置されていて、有名な鬼の足跡がある。
なんとまあ、バラエティに富んでいる事だろうか。
大げさかもしれないが、日本の宗教がすべてあるといっても過言ではない。
岩屋神社は後年、弘法大師がここで護摩の法を修してより寺門大いに栄え、支院三十六。その盛名は崇嶽の神宮寺と並び称され、表裏をなして共に西国有数の巨刹(大きい寺)であったという。
弘法大師の伝説は長崎市内にもたくさんあり、岩屋山に来たという記載をやはり信用できないが、行基や空海の名が連なっているのは、やはりかなり有名な霊場だった証だともいえる。
岩屋神社の一の鳥居は、赤迫付近にあり、昔は赤迫あたりから岩屋神社の影響があったのである。
やはり岩屋神社は古代長崎の文化の中心だったと確信する。
仏教伝来
この前対馬に行っていろんな神社に行ってみたのだが、対馬の古い神社も、神仏習合の姿をしっかり残していた。
記録に残っている仏教公伝(ぶっきょうこうでん)は、6世紀半ばの欽明天皇期、百済から古代日本(大和朝廷)への仏教公伝のことを指すのが一般的だ。
ネパールのルンビニで生まれた仏教は、主として東南アジア方面(に伝播した南伝仏教と、西域(中央アジア)を経由して中国から朝鮮半島などへ広がった大乗仏教(北伝仏教)に分かれるという。
朝鮮半島へ仏教が伝わったとされる時代は、中国に近かった高句麗へは372年、百済には、384年とされている。
しかし、その時代の朝鮮半島には、北方に高句麗、南方に百済、新羅という国があったが、もう一つ伽耶(かや)という国がある。
伽耶(かや)には日本府があったのである。
伽耶
この伽耶だが、弥生時代中期(前4、3世紀)に弥生土器が急増し始めている事がわかっている。
つまり、弥生時代には朝鮮半島に倭人が国を作っていたのである。
この伽耶の存在だが、『日本書紀』には倭が任那日本府を設置して、朝鮮半島南部を支配しながら、百済・高句麗・新羅三国の三国文化を搬出していったことになっている
しかし、韓国の中学校・高校の歴史教科書では、伽耶の存在を伝えていない。
朝鮮最古の史書は12世紀の『三国史記』であり朝鮮の古代の史書は存在しないので、すべて『日本書紀』から引用している。
それにもかかわらず、倭が朝鮮半島南部を支配したという任那日本府説を主張すると、韓国の学界はそれは受け入れることができないと拒否しているのだ。
いつもの事だが、こうなると、正しい歴史を探求できないのである。
朝鮮半島へ仏教伝来があったと伝えられているが、当然、伽耶(かや)にも仏教は伝わっていたはずである。
任那日本府の事は、私が学校で習った時代では教科書に載っていた。
任那日本府は、倭(古代日本)が朝鮮半島南部に設置した統治機関として日本書紀に載っている。
それ以外でも、中国や朝鮮の史書でも朝鮮半島での倭国の存在は載っている。
『広開土王碑』に倭が新羅や百済を臣民としたと記されている。
新羅・百済・伽耶の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉(糸魚川周辺産)が大量に出土している。
前方後円墳が朝鮮半島の全羅南道で発見されている。
これ以外にも沢山あり、伽耶の存在は事実だという事がわかる。
仏教公伝は記録だけの事で、それ以前から仏教が日本に広まっていたことは事実で、それは当然伽耶国からであることは間違いない
よく仏教の伝来に渡来人(帰化人)が深くかかわっている事が述べられているが、それは言葉の通じる倭人の国伽耶からだったと強く思う。
仏教の多神教化
仏教は東南アジア方面に伝播した南伝仏教と、西域(中央アジア)を経由して中国から朝鮮半島などへ広がった大乗仏教(北伝仏教)がある。
大乗仏教は衆生救済を目的とし、悟りを開いていないが、仏道に励む「菩薩」の立場を重視した。
ただ、大乗仏教は紀元前後に起こり,1世紀末には、その思想が形になって伝わるのだが、それ以前は衆生救済ではなかったとされている。
仏教は本来一神教である。いろんな仏様がいるが、お釈迦様が最高位だからだ。
しかし、日本は多神教である。
これは神道が確立する前から、そうだったのだ。
そうすると、日本に仏教が自然に入ってきた時に、化学反応を起こしたはずである。
仏教には、日本の自然信仰にはない現世利益をもたらす思想があった。
それは薬師如来や千手観音、不動明王など、日本にはなかった視覚的な仏像という形があり、拝めば病気が治ったり、いろんな願いをかなえてくれたり、守ってくれたりする仏の存在である。
また、阿弥陀如来という、死んでからの救いもあった。
なので、日本の自然神と融合される形になったのだ。それが神仏習合の考えだと思う。
日本の信仰にはもう一つ祖先崇拝(そせんすうはい)がある。この祖先崇拝の考え方は、本来の仏教にはない。
何故なら、お釈迦様は霊魂の実在を認めていなかったからである。
古代神道の場合、自然信仰の中の一つとして祖先崇拝(そせんすうはい)が存在する。
なので、仏教の現世利益の部分と、祖先崇拝の古代神道(日本人のもともとの信仰)が、融合したのは自然の流れなのだ。
やはり仏教の一神教の思想は、日本人にはなじまなかったのだろう。
だから、仏教の多神教化を推し進めた。
つまり、仏様は仏神と考え、神社の中に招き入れたのだ。
例えば対馬の仏像は4世紀以前の仏像が多く発掘されている。これを考えると、日本人自身が仏像を作って信仰を持っていたのだろう。
そして、それを自然信仰の多神教の世界に組み込んだのだ。
それが、古代の神仏習合と言われるものだったのだ。
古代神道の象徴でもある、山や巨大な樹木の中に、仏を安置して、信仰の見える化と現世利益の増進を図った。
そこで生まれたのが、山伏の修験道だったと推測する。
修験道は様々な宗教を取り入れた日本独自の宗教なのだ。
岩屋山は意外と険しい山なので、その修験道の霊場としてあり続けたと思う。
葉山の話
日本には「草葉(くさば)の蔭から見守る」という言葉がある。
この草葉というのが葉山なのだ。
岩屋山の北側のふもとに、葉山という地域がある。
古くより、日本人の「霊」は、に対する考え方は、死後、はるか彼方(かなた)へと旅立つのではなく、生前に家族と一緒に暮らしていた地域にいるとされている。
墓場が小高い丘に作られている理由である。
そんな場所は、山のふもとにある丘である。
つまり端っこの山に最初霊がいて、その内山の頂上に移っていくと考えられていた。
端っこの山が端山(はやま)と呼ばれ、それが長崎の場合「葉山」という地名になったのである。
なので「はやま」という地名は日本中にある。
長崎の葉山が岩屋山の麓だという事も、この地域が霊場だったという証である。
岩屋神社に話を戻す。
岩屋神社の創建は700年前後とされているが、それ以前も岩屋山は信仰の対象だったはずである。
さて、いつの時代から、信仰の為に山に登っていったのかは記録にはないが、縄文、弥生時代から信仰はあったと思う。
明治時代の廃仏毀釈運動の影響はあったのだが、現在も日本古来の神仏習合の姿を保っている。
それが魅力的なのだ。
岩屋神社には、仏がいて神がいる。そして鬼さえもいるのだ。
とても素晴らしいと思う神社である。