古賀町 八幡神社

国道沿い 古賀 八幡神社

長崎県長崎市古賀町1064

国道34号線を諫早方面へ真っ直ぐ行くと、古賀小学校の先に八幡神社の看板がある。僅かな石段を上がると一の鳥居。立派な石の鳥居をくぐると大きな石灯籠。大きな自然石の碑を過ぎ、わずかに歩くと二の鳥居がある。

 

古賀 八幡神社 一の鳥居

古賀 八幡神社 参道

古賀 八幡神社

八幡神社境内 土俵

古賀 八幡神社

八幡神社 トイレ

境内は広く、土俵がある。建物は小ぶりの瓦屋根の拝殿。拝殿の扉はしまっていたが、しめ縄、賽銭箱もあり、お寺のようだがやはり神社である。右手にはトイレも設置されていて、この地域の人々がここに集っていたことがわかる。

とにかくきれいに整備されていて、庭も境内も華美ではないが、統一感がある神社である。

八幡神社由来石碑

境内に由緒書きの黒御影石の石碑があり、これを読むと歴史がある神社だということがわかる。

祭神は誉田別命(ホンダワケノミコト)、足仲彦命(タラシナカツヒコノミコト)、息長帯比賣命(オキナガタラシヒメノミコト)。わかりやすく言えば応神天皇、その母の神功皇后、父の仲哀天皇が祀られている。

つまり八幡神である。八幡様は大分県宇佐市の宇佐神宮を総本社として、日本で一番多い神社だと言われている。長崎市内にもいくつかあり、祭神はすべて同じだったと思う。

歴史は寛永三年(1626年)松倉豊後守重政によって再興されるとある。
これは、キリシタンの焼き討ちにあって燃えてしまったからだ。

由緒
当社は、創建年代詳ならず、足利氏の末に及び国内乱れ、社運も日に衰徴し、切支丹宗徒のため社殿等も消失せられ、殆んど廃滅の姿に帰したりしが、豊臣秀吉の切支丹宗を禁じ、徳川家康も、その政策を継ぐに及び、島原藩主松倉豊後守重政は、神仏の再興を計り、寛永三年(一六二六)三月十二日、裳着神社及び、村内西三部落の神社を再興し、境内社地は除地の特権を与えられる此の時、肥後菊池氏の遠孫、詫森右近の将監清永に命じ、裳着神社及び、村内六処神社の神主職を授けられ、爾来代々其の職を兼帯せり。

足利幕府の前の時代の記録はないらしい。

平安室町時代のこの一帯から諫早にかけては、伊佐波也之荘と呼ばれ、豊後国の宇佐八幡宮の荘園であった。

諫早と大分の宇佐神宮の関係は謎が多いが、宇佐神宮の格式を考えれば、この地も重要な地だと思われる。なのでかなりの昔から八幡神社の信仰があったのだろう。

戦国時代は、島原の有馬氏の支配下に有り、キリシタン大名であった有馬晴信が治めていたので、この地域にはキリシタン関係のものが多い。
その頃各地でキリスト教の影響力が強まり、古賀村では、八幡神社、正念寺、地大寺、長生寺等が破壊されたと記録にある。
このキリシタン達の破壊力は恐ろしいほどの勢いがあったのだろう。

キリシタン弾圧の後、この古賀の領地は島原の松倉公の領地となり、キリシタン制圧を祝い八幡神社が寄贈された経緯がある。この八幡神社の正式な記録はここからなのだろう。

それでは八幡神社の建つ前はどうかといえば、もと葉山・権現の二つの社と天満宮毘沙門社などを末社とし、長い間茂木村・日見村の天満宮と一緒にどのお社も我が村の氏神様として祭られていた。

なるほど。

葉山は端の山という意味合いがあり、死んだ人間は一時期、端の山に宿るとされていたので、基本的には祖先崇拝だと思うし、権現様は仏様が神様に変身して現れたとする、神仏混合の信仰で、大体田舎では薬師如来様あたりが信仰されていることが多い。

つまり、村を守る素朴な信仰があったのだ。

現在は国道沿いの穏やかで小綺麗な神社だが、なかなか深い歴史があるようである。

古賀 八幡神社

古賀 八幡神社

古賀 八幡神社

古賀 八幡神社

古賀 八幡神社

古賀 八幡神社

 

 

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