諫早 久山年神社 来訪神と年神


久山年神社

〒854-0066 長崎県諫早市久山町2275-2

久山年神社 一の鳥居

久山年神社

場所は西諫早と喜々津の間くらいにある。国道34号線の道沿いにうどん屋さんがあり、そこから内部に入る。すぐ近くの細い路地に石造りの鳥居があり、年神社と書かれた神額が掛けられていて、ここが一の鳥居だ。

久山年神社

久山年神社 踏切

参道に神社ののぼりが立ち並び、細い路地を抜けると急に開けて、なんと踏切がある。

これには少し驚く。長崎本線が走っていたのだ。小さな踏切を渡り、やや歩くと小丘の登り口に二の鳥居があり、石段を上がると社務所があった。

久山年神社 二の鳥居

久山年神社 社務所

お守りなどの売り物が並べられていて、反対側のベンチに社務所の方が猫と戯れてすわっている。その方と会釈を交わし、石段参道の三の鳥居、四の鳥居を抜けると、開けた境内に出る。

久山年神社 参道

久山年神社 手水社

久山年神社 由来書

右手には手水社があり、由来書が立っている。

御祭神 大年神(おおとしのかみ) 御年神(みとしのかみ)
当社は文禄元年(西暦1592年)霜月14日、第107代 後陽成天皇の御代に、久山村字宮の元(現在の吉川建設事務所の上辺り)に創建されたと記録にある。
 ある年イナゴが大発生し稲の被害が続いたため、村人は駆除に努めたが その効果もなく、困り果てた村人は もはや神にすがるしかないとして、当時の四面宮(現在の諫早神社)の神官の馬場氏を斎主に、御祭神の御神霊を勧請し祈願を行ったところ、たちまちに被害が治まった事から霊験あらたかとして祠を建て祀ったのが始まりとされている。

久山年神社 境内

境内は広く、左手には土俵があり、ビニールがかぶさっている。拝殿は古いが立派で、清掃が行き届いていてきれいだ。近くで見れば建物が大きいのに気づく。拝殿の左手には久山稲荷神社が併設されていて、裏に回り神殿を見たが、これもまたしっかりしている。

久山年神社 拝殿

久山年神社 拝殿

久山年神社 神殿

久山稲荷神社

この規模は、このあたりだと阿蘇神社より広いだろう。祀られているのが年神となれば、この地域の人々のおおきな鎮守の社なのだという事がわかる。

久山稲荷神社

久山城山公園への道

諫早市内には、年(または歳)が付く神社が大変多いが、これは諫早市が古くから県内の穀倉地帯であったことから五穀豊穣の神である御祭神を各所に祀ったものと考えられる。

年神社は長崎市内にはないので、私の目には珍しく思う。

日本神話では、『古事記』において須佐之男命と神大市比売(大山津見神の娘)の間に生まれた大年神(おおとしのかみ)としている。両神の間の子にはほかに宇迦之御魂神がおり、これも穀物神である。また、大年神と香用比売の間の子に御年神、孫に若年神がおり、同様の神格の神とされる。孫に久久年神もいる。

なるほど。兄弟に宇迦之御魂神がいるから、稲荷神社があったのだ。

来訪神という解説もあった。

正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのものであるり、門松は年神が来訪するための依代、鏡餅は年神への供え物だったという。

これは、日本の正月の原風景でもある。日本の農家は、時折やってくる神様のために、正月の準備をし、秋祭りなどの季節の行事を行っていたのだ。そういえば、祭りとは「待つ」から来ているという説を思い出した。

来訪神の特徴は仮面の祭りがあることである。多くの場合、仮面に仮装した異形の姿で現れ、豊饒や幸福をもたらすとされる。行事ではその地域の住民等が神に扮する。世界各地で行われるが、日本では折口学によりまれびととして提唱された。

掘江神社(佐賀市神野)の浮立玄蕃一流 ウィキペディア

諫早には浮立という出し物がある。浮立(ふりゅう)は、佐賀県、長崎県、福岡県筑後地方の一部に伝わる伝統的な民俗芸能である。多くは太鼓・鉦を用い、装束や面を身に着けた演舞者が楽器の囃子に合わせて踊ると説明されている。

まさに来訪神である。日本の神の原型は「まれびと」とした民俗学者の折口学の説も結構説得力がある。

同じ長崎県内でも、地域によって神のあり方が大きく違っているのを実感させられる神社だった。

久山稲荷神社

久山稲荷神社 境内の踏切

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