小長井町井崎 淀姫神社 神功皇后の妹と九州文化圏

諫早市小長井町井崎1222  淀姫神社

淀姫神社

淀姫神社

住所は小長井町井崎、最寄り駅は小長井駅。国道207号線の有明海側を進み、小長井から山茶花高原へ進む道脇にある。

大きな道から脇道に入り下り、水田地域の左手に一の鳥居がある。

近くにバイクを止めていると、軽トラに乗ったこの地域の年配の男性と話す。

「どこから来たとね」「長崎です」 おじいさんは「ふーん」と軽くうなずき、作業に戻る。

そう、この場所は、このまま国道を進むと、すぐ佐賀になる県境の地域だ。

淀姫神社

淀姫神社 一の鳥居 淀姫大明神

淀姫大明神

コンクリートで地面が固められた場所に、石の幟立てがあり、大きな石の鳥居がある。

神額には淀姫大明神と書いている。

大きな古いしめ縄が垂れ下がっている。

左手には、ペンキの剥げた白い杭に淀姫神社と書かれている。

鳥居の先にはきれいに作られた石段があり、ステンレスの手すりが真ん中に設置されていて、その石段を15段ほど上ると境内に入る。

淀姫神社

淀姫神社 山頭火の石碑

海山静の碑

海山静の碑

広い境内の奥に本殿が建てられていた。

境内入り口の右手に、山頭火の戦死者の骨箱を淡々と表現する「いさましくもかなしくも白い函」の句が書かれた大きな石碑。

その左には海、山、静の文字が丸く囲まれ、上から縦に並べられ、その両サイドを細長い円錐形で、箸で挟むように立てられた、デザイン性の強いモニュメントがある。そのモニュメントの下には「海山静 海ゆかば 水漬く屍、山ゆかば 草生す屍・・」の歌詞が記されている。

その二つとも、大東亜戦争の戦死者を詠ったものだ。

神社に鎮魂碑があることは珍しくないが、これだけ強く戦死者の悲しみを詠ったものを鎮魂に選ぶのは珍しいと思う。

淀姫神社

淀姫神社 割拝殿

淀姫神社

淀姫神社 淀姫神社祭詞

淀姫神社

拝殿は横に長く瓦屋根の大きな建物で、左右の石灯籠の先に石段があり、板張りで開け放しの建物だ。

土足で上がるようになっていて、板の場の先に、賽銭箱があり、神殿へ上がる通路があった。

天井には、銀紙で覆われた円錐形に棒がついている物が並べられている。これは祭りで使われる出し物の道具だろう。

拝殿の上には、淀姫神社祭詞と書かれた紙が貼っているが、ところどころ破け、字が薄く、シワがかなりよっていた。

なんとなく不思議な板張りの拝殿を出で、神殿に回り込む。

淀姫神社 神殿

淀姫神社 神殿

淀姫神社 八坂神社の祠

大きな神殿でよく見ると屋根が二つ付いている。神殿の格子から中が透けて見えるが、中には大きな社と呼べる建物が据えられているようだ。

神殿の左手の土手には、八坂神社の小さな石の祠もあった。

うーん。見慣れない形式ばかりである。

この日は高来町、小長井町の神社を回っている。この神社以外にも、この形式の神社があった。

長崎や諫早とも違う文化が此処にはある。その事を確信した日だった。

淀姫

私が淀姫と聞いて、一番に思い出すのが、豊臣秀吉の側室で茶々(ちゃちゃ)の事である。だがここの淀姫は全く違う。

淀姫神社 肥前風土記に第二十九代欽明天皇の時代に肥前国佐賀郡与止姫の神鎮座あり、一の名は、豊姫「ユタヒメ」一 の名は、淀姫とある。

これは延喜式のとき肥前の一の宮と指定された佐賀の川上神社のことであるが佐賀・長崎 の両県下にはこの分神と云われる淀姫神社や川上神社が多い。与止姫を海神の女豊玉姫とする説もあるがこれは 豊前地方のことらしく、また一説には神宮皇后の妹淀姫という人もある。古代九州民族の祖で勇武な女神であっ たらしい。小長井町郷土誌

郷土史には「ユタヒメ」とあるが、一般的には「豊姫(とよひめ)」というらしい。

ネットで調べると

與止日女神社(よどひめじんじゃ、与止日女神社)は、佐賀県佐賀市にある神社。式内社、肥前国一宮で、旧社格は県社。「淀姫神社」とも表記され、別称として「河上神社」、通称として「淀姫さん」とも呼ばれている。ウィキペディア

一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことなので、佐賀県で一番格式の高い神社ということなり、長崎と佐賀は肥前国なので、長崎をも含めて一番の格式である。

ちなみにこの神社以外だと、佐賀県三養基郡みやき町の千栗八幡宮である。

この淀姫は日本の正統的な歴史書と言われる「記紀神話」にも一切名前は出てこない謎の多い神様で、「肥前旧事」「八幡童蒙記」などに、神宮皇后三韓征伐の際の話に、

住吉の神は、大海の南面をしばらく御覧あそばして、沙迦羅龍王が潮干珠・潮満玉と言う二つの玉を金の鉢に入れて、いまこれを愛でて遊んでおられる。あの玉をお借りして、力を尽くして異賊を降伏させるべく使いを送るべしと仰った。とはいっても、あまりにも強大な龍神に相応しく御使いになれるような方は誰であろう。武内(恐らくは武内宿禰)が申されるには、「皇后の御妹であられる豊姫は、如来のような相貌で、世に比類なきお姿である」たとえ龍の身なれどもこの女性に対しては争う心なども解されてしまうだろうから、豊姫を遣わしたまへと、住吉の神は計らい申し給う。
https://yodohimejinja.com/details-of-a-shrine 抜粋 淀姫神社WEB

とある。

龍王の前に出ても、気後れすることのない姫神だったと。

本来は「豊姫(とよひめ)」という姫神さま。

あの三韓征伐を為した第十四代仲哀天皇のお后である神宮皇后の妹にあたるらしい。

一番不思議なのは、記紀にも一切名前が出てこないということだ。

豊姫という名前が不思議でもある。

豊玉姫は竜宮の娘、伊勢神宮外宮に祀られているのは豊受大神。

すべて豊(トヨ)という字が入っている。

さらに、登場人物は、住吉神、龍王。淀姫神社WEBによれば、高良の神・安曇の神も絡んでくるという。

九州邪馬台国

これって、九州の歴史を語っているんじゃないかと思う。

神宮皇后とその妹豊姫。邪馬台国の女王卑弥呼とその後継者台与(トヨ)

同じ設定である。

さらに、神功皇后は天照大神であるという説もある。

伊勢神宮の上宮に祀られているのは天照大神、そして外宮には豊受大神。

コンビではないが、竜宮の娘豊玉姫は、天孫降臨のニニギの息子火折尊(ほのおりのみこと)と結婚。

その息子、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)と結婚したのが、豊玉姫の妹、玉依姫。

その子供が、神武天皇である。

あまりにも出来すぎている設定だと思う。

様々な女性コンビで、一番信憑性があるのは、魏志倭人伝に名前のある卑弥呼コンビだ。

卑弥呼コンビが、それ以外の女性コンビの話のもとになっている。

住吉神、龍王、高良の神・安曇の神の登場人物は、邪馬台国の周りの国の逸話だと思う。

邪馬台国とその文化圏が佐賀・福岡地方にあり、それらの話の一部が、淀姫信仰になっていると思われる。

現実に「淀姫伝説」は、北部九州の広範囲に存在している。

古事記に載っていないのは、記紀の話は、九州文化圏の話が元ネタだという証拠でもある。

井崎の淀姫神社

井崎の淀姫神社は部落の生命線である船津川の第四井手口の下手にあって井崎の守り神となり、井崎部落の人 家の軒下をめぐり住民の使用水となり水田の灌漑水となる水路を見守っている。小長井町郷土誌

今の社殿は亨保年間(江戸時代の1716年から1736年)の建築であるが、拝殿と鳥居は亨保五年の奉献と書かれている。

古いけど、邪馬台国ほどではないので、淀姫信仰が受け継がれての結果である。

割拝殿形式

初めて見る形式だったので調べてみた。

平安末期ころに現れた拝殿の形式。横長の平面の中央を土間(馬道・めのどう)をとって通路としたもの。

「割(わり)拝殿」といいまして、建物の真ん中に参道が通っている形式です。この形式の拝殿は京都でも時折見られます。「由岐(ゆき)神社拝殿」・「御香宮(ごこうのみや)神社拝殿」・「許波多(こはた)神社拝殿」などいくつか例が見られます。また割拝殿のある神社は女神を祀っているという俗説がありますが、これは参道(産道)が通っている、という語呂から生まれた、昔の「なぞかけ」なのかもしれませんね。 京都市観光協会HP

拝殿の形式の一つのようだ。

この形式が、高来、小長井地域に伝わっているという事が大事だ。

神社の建築様式は様々で、神様によって違ったりしている。

割拝殿形式に関して、特別な話もないようだったので一つの形式として覚えておきたい。

高来、小長井地域は面白い。

遠くまで来たかいがあったと思う。

淀姫神社

 

小長井町井崎 淀姫神社 神功皇后の妹と九州文化圏” に対して1件のコメントがあります。

コメントを残す