高来 湯江神社 老松天神から湯江神社へ
場所はJR湯江駅の北500m程の辺り、湯江小学校の西側に一の鳥居がある。
ここにはバイクで来たので、上の道から直接、社の境内に着いてしまった。そこで石段を降り、一の鳥居から写真を撮る。
一の鳥居の正面は、大きな道を隔てて湯江小学校がある。
古そうな大きな石の鳥居をくぐり、石段の参道を登る。参道の右手には、仏様の小さな木の祠がある。
鎮守の森の中の石段は、全部で132段とある。参道の途中に二の鳥居がある。此処の扁額も老松神社とある。鳥居の柱には「貞享(じょうきょう)三歳」の文字。おそらく1687年の事。
もう少し登ると、平地の境内入り口につく。大きな新しい鳥居があり、ここの扁額には湯江神社と書かれている。
一の鳥居、二の鳥居には老松神社、三の鳥居には湯江神社となっている。
広い境内は芝のようで、本殿まで細いコンクリートの道が付けられている。社殿前でコンクリート道は右手へ行く道が加わっている。
その道を進めば、大きい忠魂碑が建っている。
更にその右手には、木々の前に木製の簡素な鳥居だけが建っていて、扁額には多良獄の文字が書かれている。
多良獄信仰の鳥居だ。今は見えないが鳥居の先は多良獄だろう。
拝殿の前の右手には、大きな自然石を加工した湯江神社の沿革が彫られている。
由緒
御祭神 菅原道真公・譽田別命・息長足姫命・瀬織津姫命
菅原道真公をご祭神とする老松神社は、建仁年間(1201?1203)太宰府天満宮よりご分霊を奉請して祭祀された。江戸時代は7郷の社とあおがれ村々から毎年浮立を奉納した領内第一の天満神社で明治7年(1874)に郷社に列せられた。明治11年(1878)区制から郡制への変革に伴い三部壱と平原の住民が氏子となり奉斎してきた。
黒崎名に鎮座し元湯江村一円の住民で奉祀していた八幡神社は、貞享年間(1684?1687)に筥崎八幡宮より譽田別命のご分霊を奉請して奉祀され明治7年(1874)村社に列せられた。
里名に鎮座した若宮神社のご祭神は息長足姫命里の住民で奉祀していたが元禄5年(1692)八幡神社に合祀された。三部壱名通瀬に鎮座した通瀬大明神はご祭神が瀬織津姫命で法川、善住寺、平原の住民で奉仕していたが(1875)八幡神社に合祀された。
以後両社とも地区の住民で奉祀してきたが祭祀を厳修し氏子の弥栄えを願うため、老松神社と八幡神社の氏子が相諮り両社神を現在地に合祀して昭和41年(1966)5月神社名を湯江神社と定めた。
昭和44年(1969)社殿が荒廃したため氏子並びに崇敬者が寄附を募り社殿を再建し神域を整美した。神社の沿革の記録が薄れるのを憂い此処に記する。
境内由緒書き より。
社殿の屋根は銅葺きで、拝殿入り口やその周りは、格子のガラス戸だ。
向拝所には、しめ縄と鈴と賽銭箱。拝殿をガラス戸越しに見ると板張りの上には、縁が青いきれいなゴザが敷き詰められ、紫の幕には諫早家の家紋の「上り藤」が白抜きで染められている。
簡素だが、きれいな拝殿である。
拝殿を出て、回り込むと、石の神殿が建てられている。屋根は銅葺きでコバルトブルー。社殿はガッチリとしたコンクリート、神殿の台は石垣である。
郷土史を読めば1813年にすでに石造りの神殿だったとあるので、改修の際に手を加えたと思える。
全体を見れば、小ぶりだが、まとまっている神社と言える。
沿革によれば、老朽化のため昭和44年(1969)に改築したとある。という事は、現在は2022年なので築53年だ。
湯江神社の沿革
湯江神社の沿革は多少込み入っているので、まとめてみた。
この神社は、鎌倉時代(1200年頃)、多くの老松が茂っていた場所に「老松天神」の名で呼ばれていたとある。
江戸時代になると七郷の社と呼ばれ、領内第一の天満宮になった。
その後「八幡神社」が登場するが、黒崎名に鎮座しとある。現在の高来中学校の付近に黒崎公民館という建物があるので、そのあたりにあったのだろう。
老松天神とはかなり距離がある。
以後両社とも地区の住民で奉祀してきたが祭祀を厳修し氏子の弥栄えを願うため、老松神社と八幡神社の氏子が相諮り両社神を現在地に合祀して昭和41年(1966)5月神社名を湯江神社と定めた。
とあるので、話し合いで現在地に合祀して、昭和41年(1966)神社名を湯江神社にしたのである。
だから祭神が、菅原道真公・譽田別命・息長足姫命・瀬織津姫命(治水神)とバラバラなのだ。
老松神社は鎌倉時代まで天神さんを祀っていたという。
天神さんは人気の神様なので、何の不思議はない。
しかし、旧湯江村には八幡神社が六ヶ所もある。これは大分の宇佐八幡神社に、このあたりを荘園として寄進したためと言われている。
南北朝以前は、大村氏の支配下にあった。湯江には湯江一族という豪族がいて、活躍していたという。
その後有馬氏の直接支配を受ける。その後、西郷氏、佐賀藩(竜造寺家)諫早家の支配となる。
現在は静かな農村と漁業の町なのだが、豪族時代から武家時代には、色々争いがあったと郷土史には書かれている。
多良獄信仰
老松神社の境内に、多良獄の鳥居だけがある。
ざっくり書けば、古代より天台修験の霊場として肥前、佐賀地方の信仰を集めた場所である。
山頂の太良岳神社上宮や、山頂からやや下ったところにある真言宗金泉寺などはその面影を残すとある。
多良岳のキャンプ場に子供たちと行ったことがあるが、大きい山だったという実感がある。
多良岳は佐賀、大村、長崎にかかっており、その信仰の影響は非常に大きかったのだ。
諫早の多良見という地名は、多良岳が見える場所という事から起こっている。
長崎市内や諫早市内の神社をこれまで巡ってきたが、高来や小長井の神社をまわると、全く違う信仰もあり、驚くことが多かった。
例えば川上神社の祭神は淀姫命だが、長崎では全く聞いたことがなかったが、佐世保や佐賀、福岡には沢山分布していて、肥前の一宮が與止日女神社(よどひめじんじゃ)だということを最近知ったばかりである。
また、古事記に載っていない神様も多く、九州という場所が、かなり特殊な場所だということも、再確認させられる。
十字架の墓地
老松神社の背後に当たる場所に、多数の十字架が並んでいて驚く。
近くに湯江修道院、養護老人ホーム聖フランシスコ園があるということなのだが、十字架の下には、仏教のお墓も多数並んでいる。
これを見ても、ただの静かな農村地帯だけではない歴史を持っていることがわかる。
もう一つ気になったのが、この神社は東平原で「ひがしひらばる」、原をばると読む地域なのだ。
うーん。このあたりの地域の歴史は奥が深い。
そう感じた神社でもある。