飯盛町 志賀神社 長崎とは関係ない浮立の蛇踊り
場所は、長崎市内から日見を越え牧島を過ぎ、国道251号線で飯盛山の手前を、138号線の花之木・久山方面の道路に乗り、木場名公民館の近くにある。
バス停にも、志賀神社前というのがある。
私が行った時には、目の前に田んぼが広がり、田植えの水が張られていて、農村風景の典型的な光景があった。
飯盛町は江ノ浦村と田結村が合わさった町だが、志賀神社があるのは田結村の地域である。
舗装された道脇に、少し石段があり、そこに一の鳥居がある。左は山の斜面で、右手は森が広がる山の際に細い石段が作られている。
20メートル程登ると二の鳥居。そこには志賀社の文字の扁額。更に登れば、すぐ三の鳥居が見える。
そこの扁額にも志賀社とある。そこから境内になり、広い敷地の奥に社殿がある。
社殿の前には、大きな台形の石垣の上に立派な狛犬が、左右に配されている。そこから段が上がり、正面に木板壁、瓦屋根の拝殿がある。
拝殿入り口は格子の扉で素通しになっている。
拝殿内部は板張りで、荷物も置いてなく、天井には龍踊りの龍がぐるりと鴨居の高さで天井にくくりつけられている。
天井を見ると作り物の蛇はかなり長い。ただ長崎の蛇踊りの蛇を見慣れているせいか、その作りの完成度は長崎の蛇より落ちるようだ。
浮立を行う多くの神社の拝殿は、板張りで何も置いてないようだ。拝殿が物置というか、祭りの準備場所にしているようである。
拝殿を出て神殿の方に回り込む。同じ板壁作りで、かなり傷んでいるようだ。
神社の右上の山手の方に、小さな祠が建ててある。
諫江八十八ヶ所霊場の62番札所の杭が立っていて、ブロックの壁の中には二体、赤い前掛けをした仏様が安置されている。
真言と十一面観音菩薩と書かれた紙が、屋根の奥の軒部分に貼られている。その右手には野ざらしの小さな石の祠が幾つかあり、その中の一つに顔が三つ、手が6本の仏様が、浮き彫りで彫られ安置されている。
いわゆる三面六臂像で阿修羅像と思ったが、これは馬頭観音である。
更に右奥上に、複数の墓石が半円形に並んでいた。
墓石の形が卵型だったり、角が丸くなっているものが多い。これは無縫塔(むほうとう)というらしく、お寺の僧侶のお墓らしい。
その下の広場の角に、社が建っている。敷地が広いためポツンと見えるが、入り口にまわると善福寺と書かれた木板が入り口に掲げられている。
拝殿の中を見ると、仏壇には金色の仏様と、その左には龍の頭、仏壇の前左右には赤布に薬師瑠璃光如来と書かれた幟もある。
後で調べたら天祐寺の末寺が再建されたとあった。
沿革
創建 元亀2(1571)年
祭神 速秋津彦神 ハヤアキツヒコノカミ
由緒
「勧請は元亀二年(1571)なり。田結村古場名は山間の地にして 耕地の用水に不便を感ずること多きを以って水戸の神として鎮祭す。五穀の豊饒を祈願し氏神としたるなり」大正七年編 田結村郷土誌
速秋津彦神は伊邪那岐命・伊邪那美命の神生みで生まれた神。河口を司る神から、港の安全を司る神と農業用水を司る神が生まれたとある。
志賀神社の前には田結川が流れているのだが、川というのは氾濫をする。
なので農業用水の安全な確保を祈願してのことだと思う。
浮立の蛇踊り
龍は水の神様なので、「浮立の蛇踊り」がある。
田結浮立(たゆいふりゅう)
県指定無形民俗文化財。田結浮立は、1200年前に遡る神話から起こった奉納舞で、県下に数多い総合浮立の中でも最も多彩な種類をもつ芸能です。垣踊り、蛇踊り、月の輪、道具、掛打ち、狐踊り、銭太鼓、薙刀踊りなど室町末期の面影を残す垣踊りから、江戸中期の笛の曲を持つ行列の芸まで、いつの時代にか組み合わされ伝承されています。田結浮立は幕藩時代には諫早領御用浮立として重んぜられていて、歴史的、さらには県内の芸能分布上でも貴重な存在です。諫早観光物産コンベンション協会
田結浮立の垣踊りと蛇踊りが有名で、三年に一度奉納される「浮立の蛇踊り」は、長崎の蛇踊りよりも歴史があり、1980年(昭和55年)に長崎県指定無形民俗文化財となりました。
田結浮立は諫早のんのこ祭りで見たことが有る。
たしか、舞台の上の龍が煙を吐いていて、舞台上を駆け巡っていた。
服装や雰囲気は長崎の蛇踊りに寄せているようだが、長崎の蛇踊りは唐人から学んだ踊りで、こちらの蛇踊りは、龍神伝説から自発的に発生したのではないかと想像する。
長崎の蛇踊りは、奉納踊というより職人集団の芸の域にまで到達した感がある。なので誰もが参加できるものではない。
だが浮立は農村の踊りである。それは全員参加が基本なので、ある程度、時代によって、ばらつきがあっても問題ないのだ。
浮立(ふりゅう)は、日本各地で伝承される中世の風流を源流にもつ芸能の1つと考えられている。
風流踊(ふりゅうおどり)または風流(ふりゅう)とは、中世芸能のひとつで室町時代に流行し、鉦・太鼓・笛など囃しものの器楽演奏や小歌に合わせて様々な衣装を着た人びとが群舞する踊りである。
これが盆踊りなどの元になっているという。
長崎市のおくんちでは、神に奉納する踊りという設定なのだが、長崎市内以外の浮立は、それとは少し違い、集団で参加し、雨乞いや豊作を祈願するというものだ。
祭りという言葉は「祀る」の名詞形で、本来は神を祀ること、またはその儀式を指すものである。
しかし、これに漢字が登場すると、様々な意味に分化していった。
「祭り」・「奉り」・「祀り」・「政り」・「纏り」。すべてがマツリである。
浮立などの踊りは、個人が儀式に参加することである。日本においてはこちらが主流だと思われる。
長崎市内からスタートした神社巡りだが、長崎市内はキリスト教という要素が加わっていて、やはり特殊だと思うようになった。
神と仏の共存
この志賀神社には諫江八十八ヶ所霊場62番札所、弘法大師堂、新しく作られた善福寺の薬師如来像、馬頭観音や、地蔵尊、住職の墓などが安置されている。
まさに神仏共存の場所だ。
神であろうが、仏であろうが、村の人にとっては関係ないと思う。
千年もの間、そうしてきたのだから。