小長井 田原神社 神世七代の神を祀る

長崎県諫早市小長井町田原97 田原神社

田原溜池

田原神社

田原神社

田原神社

田原神社

田原神社 池からの石段がある

場所は山茶花高原ピクニックパークの下の方にある。下と言ってもかなり下である。

多良岳レインボーロードを佐賀方面に進み、船津川を山部の方へ遡ると、田原溜池があり、その溜池の中にある。

だが島でなく、田原バス停から神社まで溜池の中に道がある。つまり陸地から行ける島である。

田原溜池は大きい。

岸辺から見ると、遠景に山々が連なり、私が行った時は天気も良く、緑色の水に空の雲が映り込み、穏やかで広さを感じる光景がそこにあった。

田原バス停の脇はバイクも通れるコンクリート道で、神社の場所は鎮守の森で覆われている。

田原神社

田原神社

田原神社 拝殿

田原溜池 神殿

田原神社 神殿

田原神社

境内はそれほど広くもないが、社殿と鳥居がある。

右手の溜池のそばに立っている鳥居は、しっかりとした鳥居で、溜池に向かって僅かな石段がある。昔は船でこの神社に渡っていたことがわかる。

社殿は小ぶりの建物で、白壁が汚れていて、拝殿の入り口も普通の玄関のようで神社らしくない。

拝殿の中は板張りで、賽銭箱と鈴の紐がぽつんとある。神殿入り口の両横には令和や天皇陛下のノボリが各二本づつ張られている。神殿の扉は閉じられていて、此処で祭祀を行っているようには見えなかった。

神殿の方に回り込むと、大きな鉄柱が神殿をがっちり支えている。

倒壊の恐れがあるようだ。

祭神は大戸辺命、大年命。

大戸辺命はあまり馴染みのない神様だ。

オオトノベノカミと読み、『古事記』では、神世七代の第五代の兄妹神とされる女神。意富斗能地神(兄)が男神とある。

神世七代における意富斗能地神・大斗乃弁神の対偶の位置付けは、岐美二神の生成に向かう過程として、(1)の立場から、人間の住むべき居処の成立とする説や、農耕の湿地の造成に模した大地の完成とする説、(2)の立場から、発生した神の形からの身体的な男女の性の具現を表すとする説がある。国学院大学

うーん。よくわからないが、神世七代目が伊邪那岐、伊邪那岐なので、その前の神様だという。

解説だと、溜池の神様なので「農耕の湿地の造成に模した大地の完成」という説がピッタリはまる。

大年命は諫早市内にも多く祀られている、豊かな実りをもたらす神様だ。

郷土誌に書かれている沿革を記載する。

田原神社

位置 小長井町田原名九七・九八番地

祭神 大戸辺命 大年命
由緒 源頼朝が鎌倉に幕府を開いた文治丙年の年(1186年)田原村が開拓され井崎や小川原浦よりも古い。標高二百米位の 盆地で周囲は小高い、丘陵にかこまれ盆地の北側には城山がそびえ南側には広さ十三ヘクタール (約十三町歩)周囲 四キロメートル(一里)余の田原溜池がよこたわっている。
この溜池は永禄年間に領主西郷氏の命によって築造されたといわれ本郡第一の溜池である。

この溜池の中央の景勝地に一宇を創建して鎮座した。溜池築造のため社殿を北山弥次郎の景勝地に遷座した。 その後数年して悪疫流行したため村民深くこれを畏れ、天正三年更に堤地の中央に二百余坪を埋築して一宇を建設して遷座式を行った。今の社殿がこれで田原部落の氏神様である。

西郷氏だが、諫早を治めた西郷 純堯(さいごう すみたか)の事だろう。

しかし、その何百年も前に田原村は誕生していたのがすごい。

溜池の中の神社ということで、お参りに来たが、長い歴史を持つ地域だとわかった今、溜池ができる前はどんな農業をしていたのだろうか。

もしかしたら、縄文、弥生から人が住んでいた地域だったかも知れない。

古い神様を祀る神社である。

そんな意味合いがあるのかなと想像した。

田原神社

田原溜池

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