島原 三会温泉神社 四面宮は砦か
島原鉄道の三会(みえ)駅と松尾町駅の間、国道251号のすぐ東に、三会温泉神社がある。
国道の道からでも入れるが、国道から見て右側に鳥居、海側に大きな鳥居がある。海側を見れば線路越しに鳥居が見えるので、一の鳥居は海沿いにあるのだろう。
しっかりとした石垣は二段構えになっていて、境内は広く立派な社殿が建っている。
平成17年に改築されたとあり、拝殿の前には四面宮の幟が立っていて見事な面構えだ。
境内には御神木の巨大なクスノキ、脇の鳥居横には猿田彦の碑がある。
改築記念碑には1658年この場所に転社したと書かれている。脇の鳥居の扁額には天満宮と書かれていたので、昔は天満宮だったのだろう。
祭神
白日別命、豊日別命、向日豊久士比泥別命、建日別命、速日別命
速日別命以外は古事記の国産みのときの九州の神様で、4人いるので四面宮。
速日別(にぎはやひのみこと、饒速日命)は神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されている神様である。
この神様と同列に四面宮を祀っているとなれば、四面宮も大和以前の神様たちかもしれない。
四面宮
三会温泉神社の読み方はみえ・うんぜん・じんじゃである。
雲仙岳の地獄にある総本山は、昔はうんぜん神社、現在「温泉(おんせん)神社」と読ませている。という事は、三会は昔の読み方を使っているという事になる。
四面宮の最初は、大宝元年(701年)に当地を訪れた行基が大乗院満明寺を開山し、同時に当神社を創祀したと伝えられる。
以後、雲仙岳を霊山として信仰し、当神社からふもとの諸村に温泉神社(四面宮)を勧請、当初は千々石、吾妻、有家、そして伊佐早(現諫早神社)の4か所であったが、その後も広がり現在では島原半島内には温泉神社を称する神社が十数社ある。
弘安4年(1281年)の元寇に際しては元陣に一身四面の勇士が現れ、「吾は肥前国温泉社なり云々」と称したと伝える。
温泉神社の数は島原、諫早で20箇所以上あり、鎮座している場所は、島原半島をぐるりと囲み、諫早は本明川の川辺である。
この理由を考えたい。
国防のための四面宮
島原半島をぐるりと取り囲む配置は、まさに防衛のための見張り台だとか、砦である。
諫早も現在よりも海が入り組んでいたので、海からやって来る敵の見張りとも言える。
四面宮は明治時代、筑紫国魂神社という名前に変更している。
かなり勇ましい名前と思う。筑紫国とは九州のことで、その魂を祀るという意味は国防と言ってもいいと思う。
国家のために殉難した人の霊を祀るための神社は護国神社と言うが、昭和14年に招魂社から改称されたもので、やはり魂という字が入っている。
四面宮ができたのは西暦701年ということになっている。
この年代の前には、重大な事件が起こっている。
それは白村江の戦いである。
白村江の戦いは、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江で行われた、百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との間の戦争のことである。
この戦いで日本はボロ負けをした。
そして、唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇は防衛網の再構築および強化に着手した。
対馬や北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海沿いの西日本各地(長門、屋嶋城、岡山など)に朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。
さらに、667年に天智天皇は都を難波から内陸の近江京へ移し、防衛体制は完成したとある。
四面宮が誕生したのはその後である。
そして、それを勧進した神社は島原を取り囲むように並んだことになる。
おそらく雲仙は701年以前から、山伏たちにより開かれていたはずである。そして霊山として祀られていた。誰を祀ったのかは不明で、四面宮だったかもしれない。
満明寺という仏寺が出来たことで、四面宮信仰の形が整っただけだと思う。
その後も九州は外敵の襲来を受けている。
9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前、筑後、肥前、肥後、薩摩の九州沿岸である。
有名なのは1019年の刀伊の入寇(といのにゅうこう)、さらに元寇もある。
つまり、四面宮は防人たちの砦だった可能性が強い。
または、神社は兵器庫だった可能性もある。現に奈良の石上神宮は物部氏の武器庫だったとされている。
もちろん、それだけではなく、信仰の場所だったことは間違いない。
しかし、国防のために建てられた施設という視点も間違いないと思える。
さて、どうだろうか。