沖縄 那覇への旅(7) 沖縄と日本 信仰の推移

日本人と沖縄人は同じ民族なのかという問に現在は決着が付いている。

DNA

最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民は、縄文人を基礎として成立し、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成であり、同じ祖先を持つことが明らかになっている。

中国南部及び東南アジアの集団とは昔から活発な交流があったが、遺伝子の研究から中国や台湾の集団とはかなり離れていることが判明している。ウィキペディア

これが現在の研究結果である。

そして「琉球人」や「日本人」と言う枠組みは本質的に実在するものではなく、作られた、構築されたものであると考えるのが主流である。

政治や思想の流れで作られた民族意識は、混乱を招くだけで利用されやすい。

大雑把に縄文人の子孫ぐらいで考えたいと思う。

グスク時代と言われる農耕時代が始まる前は、狩猟採集が主だったので、日本の文化の影響は少なかったと思える。

古民家の屋根 シーサー

言葉

現在でも沖縄の言葉は、独特のイントネーションと意味のわからない言葉があるが、学問的には日本語と系統が同じ言語と見なされている。

ただ琉球方言と日本語は、同じ系統であることは明らかであるが、地理的・歴史的な背景から、互いに通じ合わないほどの大きな違いがある。

例えばフランス語とイタリア語の差に匹敵するらしい。「憂鬱」は仏語 mélancolie メランコリ、イタリア語 malinconia マリンコニアという。

西洋の例に例えるとわかりやすいと思う。

仏教と文字

琉球に漢字や仮名が伝わったのは、1265年頃、禅鑑仏僧が日本から来琉し、仏教とともに文字が伝わったと推定される。

琉球で発見された、いわゆる固有文字(「スーチューマ」「カイダー字」「石刻絵文字」)の多くが漢字から生まれたとのことが明らかなっている。

カイダ文字の例 ウィキペディア

これは文字の読めない平民の便利のために使用されたものであり、首里から離れた地方の農村、離島に多かった。

琉球の場合も朝鮮半島や日本と同様に、仏教とともに文字文化 (いわゆる漢文や漢詩など) が伝わった。

中山の英祖王が即位 (1260年) して間もなく、1265年に禅鑑仏僧が日本から来琉し、彼によって琉球に初めて仏教の伝来が始まったという説が有力である。

その当時は仏教が大和に入ってからすでに千年くらい経過しているため、琉球には仏教や漢文にくわえて、その千年間に発展してきた和文学も同時に移入したとみられる。

参考、引用させていただいた文

古琉球における文字の導入・使用について PDF
しるびあ たるたりーに https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwiBwOT34q_7AhUaPXAKHUAACpQQFnoECBkQAQ&url=https%3A%2F%2Fobirin.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D1635%26file_id%3D21%26file_no%3D1&usg=AOvVaw1siVDIWU3Y3gFVtkXbqi1S

琉球列島の文字 英 Writing systems in Ryukyu Islands
https://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_easia_41.html

琉球と仏教

琉球の歴史は、統一前の古琉球と、統一後の琉球王国の時代にはっきり分かれる。

英祖王の在位中 (1260―99) に極楽寺をはじめ、仏教や仏教に関 連する文明の伝道所となる寺の創建が行われた。

そして禅鑑以来、日本から多くの僧侶が琉球に渡来した。当時の僧侶の多くが仏教のほか儒教、和文学などに通じていたことから、当時の日本の諸文化の運搬者だったと思われる。

さらに, 僧侶達が琉球において知識階層として活躍し, 仏教や学問のことばかりではなく、日本との交流や貿易に関する往復文書のやりとりも担っていた。

北山、中山、南山の三山が分立する時代を経て、尚巴志が統一して琉球王国が成立すると、あたらこちらにお寺が建立されます。この流れは第二尚氏の時代になっても続き、このころには仏教は琉球王国の国教といってもいいほど栄えるようになります。

琉球王国の時代において仏教およびお寺は王家のための存在であり、一般大衆にとっては、まるで別世界のものでした。

そのため、檀家制度があった本土のように民衆には普及せず、先祖崇拝が宗教のように定着していきました。

「沖縄で仏教は普及しなかった?」~でもお葬式のお坊さんはなぜかという話~
お墓屋さんの豆知識 https://mikuni-ohaka.com/tisiki/40889/

なるほど。

沖縄では庶民の間では仏教は広がっていなかったらしい。

琉球人は寛容で進取の気性に富んだので諸国と交易し、それらの国から多くの文化を取り入れたが、取り入れた外国文化は自国文化と融合させて独特の文化をつくったと述べ、仏教もその内容を琉球固有のものに変えたとしている。

具体的には、琉球人は経文を知らず数珠も持たず、礼拝も祈る言葉も供物も琉球的で禅門で禁じた酒を供える。また、寺に祀る仏を神、寺を宮と言い、琉球の神と区別せず霊験あらたかな神として、御嶽を拝むのと差異なく拝むのだという。宮里朝光「琉球人の思想と宗教」

また道教の影響もあると思われる。

琉球に道教が伝来した正確な時期を示す文献はないが、1719年に来琉した冊封使・徐葆光の『中山伝信録』の中に、道教の竈祭(かまどの神を祝う祭)が行われていたとの記述があることから、18世紀初頭には道教が信仰されていた事実を確認できる。その後、道教は琉球土着のヒヌカン信仰と融合して、女性の間で広く信仰された。

道教に関しては、日本と同じく民間信仰と結びつき、根付いたようである。

町の中にある うたき(神社)

琉球神道

日本と似た神道があり、琉球神道と呼ばれ、古琉球および琉球王国を中心に信仰されてきた多神教宗教である。

日本神道と同様に、固有の教典や具体的教義、開祖を欠いており、神話、自然崇拝のアニミズム的かつ祖霊崇拝的な宗教である。

現在、琉球神道は民間信仰に形を変えて残っている。ニライカナイ信仰、御嶽信仰とも称する地域もある。

斎場御嶽

うーん。かなりごった煮状態だ。

ただ政治に利用されてきた仏教と、民間の自然崇拝のアニミズム的かつ祖霊崇拝が存在していることはわかる。

日本の場合、神道と仏教は融合し、神仏習合の形を取り、民間にも深く浸透している。

となれば、琉球王国がなくなり仏教が廃れ、民間信仰のみが沖縄の純粋な信仰といってもいいかなと思う。

そして「琉球人の思想と宗教」に書かれている事に、とても納得している。

琉球の固有宗教は、個人的な幸福を祈願するのではなく、社会及びそれを支える生活や生産について祈願し祝福するもので、社会が平和になれば個人は幸福になれると考えたのだと言う。

その固有信仰は、祖霊神、祖先崇拝、火神、ニライ・カナイ、おなり神、水のセジ、万物有霊などがあるが、拝む対象の日月星辰を通して現世に益をもたらす祖霊に報本反始するものであると述べている。宮里朝光「琉球人の思想と宗教」

社会が平和になれば個人は幸福になれるという考えは、日本の田舎の神社の考えと一緒である。

仏教は個人的な迷いを解消するためにあり、神道は共同体の事を祈るからだ。

やはり、沖縄と日本の根っこの気持ちは同じだと思う。

国際通りの脇道にあった水神様

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