愛野温泉神社 四面宮は砦
国道57号線を長崎から愛野に向かって進む。
愛の夢未来センターの仕事でこの道を進んでいた時、裏道のような道に一の鳥居を発見する。
地図で見れば、昔の島原街道の道脇だ。
大きな鳥居をくぐり、参道の石段の前に進むと、右手に温泉神社の由来が書かれた、大きめの看板があった。
石段を登り境内に出る。それほど広くない境内の奥は、一段高くなっていて石垣が組まれていた。
温泉神社は、島原にたくさんあり、社殿の形は、大小の違いはあるがだいたい同じである。
拝殿左には神輿庫がある。四年に1度の、秋の温泉神社祭りに使われているようだ。
寝殿造
この神社の作りは、寝殿造だ。外側を廊下にしており、内部は柱だけで壁はほとんどない。
つまり全面開放式で、神事がある時は全て開けられて、神楽殿として使えるようになっている。
これは日本独自に形に変化した和風のあり方だという意見がある。
それは、中国や欧米でみられる閉鎖主義の個室本位ではなく、日本特有の融通自在で開放的な大部屋式だからである。
これは、日本の夏が高温多湿から来ているからだとも思うが、テレビの平安時代や鎌倉時代の建物の様式を見れば、開放的でシンプル、パネル状の障子といった移動可能・取り外し可能な障屏具で構成されている。
平安時代は中世温暖期
794年に平安京に遷都した平安時代は、中世温暖期と呼ばれる安定した暖かい気候だと言われている。
現在世界は温暖化の傾向にあるが、平安時代ほどではない。一番温暖化した時期は縄文時代である。
だから、この寝殿造が出来上がったのだろう。
テレビで見ても、あんな板張りで、スカスカしている作りでは、現代の冬は越せないだろう。
気温と文化は密接に繋がっているのだ。
立て札の由緒
御祭神:白日別命、建日別命、豊日別命、大綿津見命、速日別命、誉田別命、豊久士比泥別命
由緒:「昔、文武天皇が大宝元年(701)に、行基菩薩に勅して、温泉神社を御創建になり、九州の総鎮守の神としてお祀りになった」と雲仙の満明寺境内にある法華塔碑銘に刻まれていますが、その神々を分神し、この愛津に鎮祭されました。本来この岡は地形上海上交通安全を祈る聖地であったのでしょう。温泉神社は中世の頃は四面宮といわれていましたが、明治2年宮号を廃して温泉神社と改められました。今も土地の人たちは「お四面さん」と呼んで崇敬しています。そして明治8年に、大綿津見命、誉田別命の御二柱を合祀されました。
四面宮は砦
白日別命、建日別命、豊日別命、豊久士比泥別命が四面様である。
島原の海岸沿いにたくさん、雲仙四面宮の別院として建てられている。
この愛野温泉神社は、現在陸地の真ん中となっているが、それは諫早の干拓のおかげで、昔は愛野ではなく愛津と呼ばれていた。
つまりこの温泉神社も海岸の近くだったのである。
四面宮は九州の総鎮守の神として呼ばれていた。
なぜ九州の総鎮守かといえば、海沿いを守っているからだと思う。
私の想像だが、四面宮は海からの外敵を守る砦として、機能していたと思う。
砦というより、見張り台に近かったのではと思う。
これは古代の島原に、一つの王国があったとも考えられるのだ。
こんな話は誰も信用してもらえないが、神社は信仰だけの場所ではなく、コミニュティセンターであり、政治(まつりごと)の場所でもあった事を思い出してほしいのだ。
これは、いろんな四面宮を実際に見て思った実感である。