沖縄 那覇への旅(15) 生き残る天久宮
天久宮は「あめくぐう」と読む。
場所は沖縄県那覇市泊3丁目なんだが、住所を書いてもわからない。波上宮から10分ほどで行ける海の近くの神社だった。
沖縄県立泊高等学校が目の前にあった。近くの港は泊港というらしい。
この神社は、琉球八社で琉球王国において王府から特別の扱いを受けた8つの神社の一つなのだが、現在、波上宮と比べると、見栄えや規模が格段に劣る。
天久宮は現在、無格社という援助なしの最下位のランクにある。
明治時代に琉球処分により琉球王国が廃され沖縄県が置かれると、財政の都合で金銭的な庇護なしの無格社に落とされたという。
天久宮
地図で示された場所へ行くと、駐車場の前に大きな鳥居が立っている。
変だなと思い端を見ると、階段が脇にあり、下っていくと天久宮があった。
どこが拝殿なのかなと思ってみると、大きなテントが張ってあり、その右手が拝殿だった。
神社と呼べないような建物で、普通の平屋のようで拝殿の入り口はサッシの開き戸。
左手の奥には権現堂があり、仏壇には小さいが立派そうな仏像が複数祀られている。
権現堂と天久宮の間には、小さな池があり、その中にお堂が祀られていて、鳥居には弁財天だと書かれている。
拝殿の右手には岩があり、登ってみると竜宮神と彫られた碑が建てられている。
狭い場所だが、色々祀られていると思い、帰ろうとすると、更に下に行く階段に気がついた。
下に降りてみると、右手にトイレが有り、その奥の岩には石の祠や香炉らしきものが祀られていて、その碑には、個人名が書かれ、下に御嶽と書かれていた。
天久宮は、大和神道の祭神、熊野権現、伊弉冉尊、速玉男命、事解男命が祀られているが、その下では沖縄独自の御嶽信仰が生きていた。
『天久宮由緒』によれば、社殿は太平洋戦争の最中である昭和19年の十・十空襲で焼失し、社殿を失って後、戦後しばらくは御嶽の形式で奉祀していたが、昭和47年に現在の社殿を建立、同年に奉鎮祭を斎行していると書いてあった。
明治になって、全ての援助がなくなり、戦争で社殿が焼けても、現在も信仰が残っているのは、素晴らしいと言っていいだろう。
由緒
上の入り口の看板に由緒が、書かれている。長いが転記しておく。
由緒
康熙52年(1713年、和暦では正徳3年)に成立した『琉球国由来記 巻11 密門諸寺縁起』の〔天久山聖現寺〕の段にある「天久山大権現縁起」では、当社の開基を成化年間(1465年 - 1487年)であるとし、その創始について次のような伝承を記している。往古、銘苅村(めかるむら)に翁子と言う者がおり、日々を愉しんで暮らしていた。ある夕方、隣の里の天久野に出て佇んでいると、見れば山上から、気高い女人が威儀の正しい法師を送って下りて来た。山の中腹には、中に泉があって水が流れている小洞があり、二人はそこへ来た。また或る時は、法師が女人を送って山へ上がることがあった。翁子はこれを見て法師に「あなたは何者で、あの女人は誰なのですか」と尋ねた。法師の答えは「私は、ただ此処に住む者で、あの女性は山上の森に住む者です。名乗るほどの者ではありません。」と言うものであった。2人は、ある時は洞の中に入り、ある時は道の半ばで消えるときもあり、これを見るたび不思議に思った。そこで、これを王臣に奏上したところ、国王は諸官人をして虚実を確かめることとした。洞に向かって香をひねって置かせたところ自然に火がついたことから、この話が本当であることが分かり、後日、社殿を造営した。すると「我は熊野権現なり、衆生の利益のために顕現した。女人は国の守護神弁才天なり。」との神託があった。ウィキペディア
この話の真意を測りかねるが、意図的なものを強く感じた。
女人は国の守護神弁才天なりとあるが、女人は琉球国の神女と呼ばれる巫女のことで、大和の弁才天の神様か仏様と無理やりつなげようとしているとも深読みできる。
波上宮の時にも感じたのだが、琉球には仏教も神道も根付いていない。
やはり御嶽信仰がベースになっている。
信仰というのは、上から押し付けても根付かないものだ。
しかし、琉球から沖縄に変わり、様々なものが日本本土の影響を受け始めると、沖縄に暮らす人々の信仰も少しづつ変わっていくものなのかもしれない。
それが良いこととは思わないが、駄目な事とも思わない。
御嶽信仰は自然信仰であり、祖先崇拝である。
その部分は、大和と変わらないと思うからである。