神代 温泉神社[四面宮] 本来の意味は「神の代わり」
〒859-1306 長崎県雲仙市国見町神代己1460
祭神は四面宮。
神代は島原半島の南(地図で言えば上)にあり、諫早湾の出入り口にあたる地域で、神社が多い。
神代の読み方は「こうじろ」という。
広い神社で綺麗にしているが、本殿は閉めている。
由緒については不明。
国見町神代で検索すれば、武家町とか神代小路が出てくる。
神代小路の解説
神代小路は、天正15年(1584)の九州国割を経て、慶長13年(1608)鍋島信房が初代領主となったことに始まる。城址の森と堀を兼ねた川に囲まれた武家地ならではの閉鎖的空間を有する。江戸中期の地割りをよく残し、武家屋敷建築の主屋や長屋門が、屋敷囲いを構成する生垣や石垣、水路などの環境要素と相まって美しい町並景観を醸し出している。
佐賀藩の前は、鎌倉時代から神代氏が治めていた。
神代氏
神代という名は、神功皇后遠征のとき、武内宿禰の武略知謀が神の如き働きをしたので、皇后は「神の代わり」との意味で「神代」の二字を授けたと伝える。その読み方は「くましろ」だが、昔は熊代と書いたのを後に神代に変えたという。
神代氏は代々、筑後(福岡県の南部)一宮の高良神社に奉仕してきたが、文治元年(1185)、神代良光のころ、高良山から北へ二キロ、筑後川左岸の神代村に館を建てて移住し武士化していった。弱小勢力である神代対馬守宗元は、彼等の勢力に対抗できず神代の地を去って肥前に落ちていった。
肥前に移住した神代宗元は上佐賀の千布村に住し、その子勝利の代に至って肥前国に確固たる勢力を築くようになる。戦国大名探究 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kumasiro.html
神代の本来の意味は、やはり「神の代わり」という意味だ。その一族が、国見町に根ざしたというのは、色んな意味があるのだろう。
これだけ立派で、平地の田んぼ地帯にある神代 温泉神社の由緒がネットに出ていない。
もちろん、古文書には書かれているかもしれないが、大きな由来は本当にないのかもと思う。
おそらく、昔から、ここにあった神社を潰して、温泉神社にしたのだろう。
神殿の横に祠が3つ並べられている。おそらくこの祠が本来の信仰だったのだろう。
その祠を差し置いて、温泉神社にした理由が、信仰ではなく、政治的な思惑だったと推測する。
だから、由緒らしきものがないのだ。