元は禅寺、対キリスト教の八幡神社(付宮地嶽神社)
長崎市八幡町8-6。長崎の宮地嶽神社は、陶器でできた鳥居で有名だ。
長崎だけかと思ったら、有田の「陶山神社」、佐賀の「松原神社」、愛知県の「瀬戸神社」もあるそうだ。
由緒
御祭神:応神天皇、神功皇后
境内社:稲荷社、天満社
由緒:当社は承応2年、修験者存性が京都男山八幡宮より分霊を勧請し この地に大覚院を創立し奉祀したことにはじまる。宝永元年(1704年)大覚院が黄檗宗に属したことより唐船の人達にも当社は尊崇され毎年多額の寄進が唐船よりよせられた。
明治元年(1868年)神仏混交廃止令により大覚院寺号を廃して八幡神社と改称し現在に至ている。
相殿の宮地嶽神社は、明治11年(1878年)福岡県宗像郡宮地嶽神社の分霊が奉祠されたものである。
なお、当社の所在地である八幡町の町名は、延宝8年(1680年)この地区の町名が新たに名ずけられたとき、当社の祭神に因んで八幡町の町名が定められている。
宮地嶽神社とずっと思っていたが、本来は八幡神社である。
祭神の神功皇后は、三韓征伐の神話で有名で、これが事実なら日本初の海外派兵だ。
三韓とは馬韓(後の百済)・弁韓(後の任那・加羅)・辰韓(後の新羅)の事。
ただ、まるっきりの出鱈目かといえば、そうでもなく、過去、倭国が朝鮮半島半分を制覇していた可能性もある。
そんな神話なんだけど、八幡神社の八幡は、ヤハタと読み、文字通り、たくさんの旗を表し、多くの旗を翻している軍隊の事を表している。
なので、武家は大好きで、長崎市内に八幡神社がたくさんあるのは自然なのだ。
しかも、長崎の海岸には、神功皇后の伝説が多く残っているのは、そのせいかもしれない。
由緒の「当社は承応2年、修験者存性が京都男山八幡宮より分霊を勧請し この地に大覚院を創立し奉祀したことにはじまる」とある。
承応2年とは、1653年である。この期間は、キリスト教を抑え込もうと、日本が仏寺を長崎市内に、無理やり作うとしていた時代である。
「修験者存性が京都男山八幡宮より分霊を勧請し」とあるが、長崎市内にはキリスト教が多く、僧侶が恐れおののいていたので、普段より体を鍛えている修験者(山伏)を長崎の僧侶に任命したと思われる。
このパターンは、長崎のお寺や神社にたくさん見られ、長崎の諏訪神社(1625年創建)も全く同じである。
右隣に、恵美須神社、大国主神社が祀られている。
恵美須と大国主は同一視されているので、海の神様として、古来よりここにあったのだろう。
右手には、お稲荷さんの祠がある。これは商売繁盛の神様なので、やはり昔からここにあったと思う。
大覚院
八幡神社の最初は、大覚院というなのお寺だった。
1704年大覚院が黄檗宗に属したとある。
黄檗宗(おうばくしゅう)は、日本の三禅宗のうち、江戸時代に始まった一宗派で、江戸時代初期に来日した隠元(インゲン
豆で有名)を開祖とする。
長崎には、崇福寺、福済寺、興福寺、聖福寺などの有名なお寺が多い。
仏教にはいろんな宗派があるが、日本では、臨済宗(りんざいしゅう)、曹洞宗(そうとうしゅう)、黄檗宗の寺が禅寺である。
黄檗宗と臨済宗は、中身はほとんど同じである。
南インド出身の達磨(ダルマ)大師が中国に伝えたもので、座禅が主な修行だ。
禅宗は、そのストイックな修行に武士が憧れ、政治、文化に重んじられていた。あの「一休さん」も臨済宗のお坊さんである。
長崎には、その当時の中国の「明」の動乱で、多くの中国人、華僑が長崎に渡来して在住していた。
そして、多くの寺を建てた。なので、唐人たちは多額の寄付をその寺に納め、多くのお寺が栄えていたという。
明治元年(1868年)神仏混交廃止令により大覚院寺号を廃して八幡神社と改称し現在に至ている。相殿の宮地嶽神社は、明治11年(1878年)福岡県宗像郡宮地嶽神社の分霊が奉祠されたものである。
なぜ、福岡の宮地嶽神社が、この八幡神社に付け加えられたか、どこにも資料がないが、宮地嶽神社の祭神が神功皇后なので、政治的な都合で行われたと思える。
長崎の岩瀬道にも宮地嶽神社がある。
福岡の宮地嶽神社は光の道が有名で、岩瀬道の宮地嶽神社も海のそばの小高い丘の上にあるので、雰囲気的に宮地嶽神社になったと思う。
岩瀬道の宮地嶽神社 アートワークス
https://artworks-inter.net/2019/04/13/post-6026/