異説か真実か! 誰も触れなかった真の長崎の姿を検証する。NO3
山の民 「ナガ族たちの岬」。 それが長崎だ。
長崎という地名の由来の2つある。
一つは長崎氏の姓から来たという説。
もう一つは長い岬から長崎になったという説である。
人物説は、長崎氏が地元の人間である可能性が高く、名字の起こりも岬説をとっている。その岬説だが、岬というのは長く海に突き出た部分を言うのだから長いという形容詞は必要ない。
もっともらしい説だが、長崎半島のイメージがダブっているだけなのだ。それでは「ながさき」という呼び名はどこから来たのであろうか。
『元亀開港以前の長崎』丹羽漢吉氏作画(嘉村国男編「長崎の招待」文献社より)
http://artworks-inter.net/ebook/?p=260
長崎の原風景(1~5) 開港以前の長崎
これは、時間探偵(アートワークスブログ)に詳しく書いています。
野母崎にこんな話が残っている。
7世紀半ば紀州熊野の漁師夫婦が野母に漂流した。命が助かったのは熊野さんのおかげだと、山の上に祠をたてて住み着いたが夫の方は熊野へ帰ってしまった。
また、野母崎の地名は「野の母が開いた」というので野母崎となった。
こんな話である。
野母崎には浦祭りというのがあり「ちゅうろう」という唄がある。
この中に「契ぞうすき かつらぎの神」という歌詞がある。
かつらぎ(葛城)というのは 奈良県盆地の古地名である。
だが、かつらぎの神というと、役小角(えんのおづの)の事を指す。
役小角とは修験道の祖、つまり山伏と呼ばれる山岳修行者の事である。
空海と並ぶ超能力者だといわれている。
熊野というのは古代大和の本山であり霊や神のこもる場所だ。
役小角は7世紀後半の実在の人物ではあるが、不思議な伝説が多い。
「日本霊異記」の中に「孔雀の呪法を修習し奇異の験術を得たり」と書いている。
カラス天狗を子分としたとも言われている。野母崎の樺島に行者山という山がある。
役小角にゆかりの深い修験者が、野母に流れ着いたと解釈していいだろう。
更に野母の伝説と呼応する箇所が役小角にもある。
役小角は雄略天皇に嫌われて、伊豆の島に流されてしまう。
続日本紀では土佐に流されたが、後に復権して葛城に戻ったとある。
この話の呼応性は偶然ではない。
つまり大和朝廷(熊野)から追放された、役小角ゆかりの修験者の一団が長崎半島の先端にやって来た。
この一族は大陸からの渡来人集団だ。
九州という大和朝廷の権力の及びにくい場所を探したのか、仲間がいたのか、もしくは大陸へ戻るための中継地点だったのか、いずれかの理由で住み着いた。
野母という地名は熊野にあった地名を用いたと思われる。
やがて時が過ぎ朝廷から復権をゆるされ、主要人物は、熊野へ戻り、半数以上はそのまま野母崎に住み着いたと解釈される。
野母一体は残った修験者たちの集団が切り開いていった土地なのだ。
アートワークス時間探偵に野母崎の事を詳しく書きました
ナガ族の岬
役小角一族に関しては、こういう記述が「日本書紀」に記されている。
雄略4年(460)天皇が葛城山に狩猟に出かけた際、長人(たけたかきひと)が現れ、天皇と同じような格好をし、共に狩りをしたと記述がある。
他の書には天皇と同じ真似をするので天皇は怒り、征伐しようとするが、自分たちは一言主神であると述べた、とある。
長人(ちょうじん)は中国に伝わる伝説上の人種である。大人(たいじん)とも称され、東方あるいは海にある島に住んでいるとされる。ウィキペディア
長人(たけたかきひと)。
これが役小角を代表とした道教系の一言主神を祭る一族なのだ。
文字通り背の高い一族で、大和朝廷に反抗して破れた「長すね彦」と同じナガ族であり、ペルシャ系の渡来人集団だ。
またナガ族は修験者、すなわち山伏と呼ばれ呪禁道をきわめる幻術使いでもある。
長崎氏の前の時代に長崎で繁栄していた丹治(たんじ)一族がいた。
丹とは硫黄と水銀との化合したものをいうが、道教で不老不死の薬、長生の薬のことを言う。
丹を治めるという名字は、ナガ族に由来するといってもいいだろう。
また、金比羅山は丹を産出したといい、この山に常駐した可能性があり、この山の麓にある岬(現長崎)をナガ族の岬と呼んでいたのだろう。
これがながさきの語源となったのだ。
現在にナガ族の痕跡が残っている箇所、それは神社である。
一言主神と 事代主命は同じ呪言神であり、関係が密である。
この神様を祭っている神社の一覧を地図に表記してみた。
神崎神社 烏岩神社 小浦町の事代主神社 賑町の事代主神社 福田本町の事代主神社 飽の浦の恵美須神社
などである。だが残念ながら古代のナガ族の痕跡はない。
しかし、外来神信仰や、摩訶不思議な伝説。
烏岩という奇岩を信仰の対象にしたり、深堀の城山に巨石文化の名残があるなど、長人(たけたかきひと)族の文化は、山国、長崎の中に状況証拠として、いたる所に発見することが出来る。
時代と共に道教は、密教に吸収され山岳文化は大きな花を咲かせていく。
山の民は、海人族といつしか交わり、平地の民となった。
現在、長崎人が山の斜面に家を建て続け、住みなしていくのは、ナガ族のDNAが望んでいるのかもしれない。
文・イラスト 竹村倉二
▽資料・引用…長崎辞典(長崎文献社) 広辞苑(岩波書店) 長崎の民謡(長崎新聞社) わが町の歴史 編著者加藤章 外山幹夫(文一総合出版) 修験道とは何か 文 村山修一(大阪女子大学名誉教授)
■新長崎伝説 長崎のミニコミ月刊誌「ながさきプレス」連載