長崎の地名 二双舟の不思議

仕事で長崎と諫早をつなぐ長崎バイパスを利用している。

今は週1度ほどだが、過去20年ほど毎日通っていた。

長崎バイパス

長崎バイパス

全長15.1km。 昔は普通車だったので毎回240円払っていた。

今は軽自動車なので、半額以下である。

しかし距離の割に高いと思う。

調べてみると、料金徴収期限が2050年(平成62年)8月15日とある。

後、35年も有料みたいだ。

なんとなく納得いかないのは僕だけであろうか。

まあ、しょうがない。

毎日通っていた時に、気になっていた事がある。

それは、地点の名前である。

川平BSを過ぎ、犬継BSだ。

犬継って変な名前だなーと思った後に、畦別当BSがあり、前岳トンネルを抜け、八峰口BS、そして間ノ瀬ICがある。

ここから、矢上、長与方面の山道に出る。

間の瀬 入口

間の瀬 入口

気になっていたのは、「間ノ瀬」と言う名前である。

この地域は、山の上である。

「間ノ瀬」って変だ。

毎回思っていた。

という事で、今回調べる事にする。

間の瀬をでて、右折すると矢上町に降りる事が出来る。

急カーブを注意しながら降りていくと「滝の観音」になり、その後は下の道までもう少しである。

滝の観音

滝の観音

「間の瀬」 ここに伝えられている狂言まじりの猿浮立(ふりゅう)を間の瀬狂言といい,狂言のことば使い,動作,道具等,伝承によると室町期にはじまるという。

間の瀬狂言

間の瀬狂言

万治3年(1660)観音寺(滝の観音)の開山の際もこの狂言を奉納したという。現在使用している大太鼓には元禄8年(1695)の観音寺の銘がある。 県指定無形民俗文化財。

矢上神社のおくんちに奉納されている猿浮立(ふりゅう)はみた事がある。

滑稽で楽しい浮立だ。

長崎市外の人なら馴染みのある浮立(ふりゅう)だが、知らない人も多いので解説文を載せておく。

風流(ふりゅう)系の民俗芸能。太鼓を中心に構成され、佐賀県を中心に福岡県、長崎県に分布し、田楽(でんがく)と念仏踊の要素が多分に認められる。

風流というと、雅な趣の事を言うが、元は華やかな趣向のある意匠をいうとある。

浮立(ふりゅう)の出し物は様々で、実に民族的だ。

単純な振りの繰り返しが多く、時間が長い。僕は嫌いではない。

そんな間の瀬なのだが、山の中に「瀬」と言う文字が使われているのが、不思議なのである。 地図で見るとわかるが、間の瀬は山の頂上だ。

道沿いに間の瀬川という川が流れていて、渓谷がある。

なぜ、こんな場所が「間の瀬」と言うのだろう。

海がこんな所まで来ていたのだろうか。

そう思い回りの場所を調べてみると、あった。

船石町(ふないし)と言う場所だ。

そして「二双舟」という地域もある。 すべて、山の上である。

これは、まさに謎である。

船石町

今回はこの件を探偵する事とした。  

さて、気になっていた「間の瀬」だが、この地域は平間といい農業地帯である。

問題の「瀬」という字だが、「瀬」という字は、川の浅い場所で歩いてわたれるところや、浅くて流れのきついところという意味だ。

この地域には「間の瀬川」が流れている。

今は小川のような川筋だが、もしかすると昔は川幅が広かったかも知れない。

これは憶測の域を出ない。

今の科学では、何千年前の長崎の地形を知る事が出来ないからだ。

しかし、長崎市内に「浜平(はまびら)町」という町がある。

浦上方面から桜の名所の立山公園へ行く坂道の途中にある。 見晴らしが良い高台の街だ。

しかし、「浜平」という町名からすると、やはりこのあたりは海岸の近くであったと思う。

浜平1丁目は標高(海抜)は約105mである。

浜平町

「間の瀬」の地域(長崎市平間町)は、標高(海抜)約117mである。

「間の瀬」が海の近くだったという可能性は否定出来ない。

うーん。

この近くに貝塚とか古代の遺跡が発見されたら解明されるだろう。

考古学者の皆さんに期待するしかない。

もう一つの考え方は、「地区の間」の「川の瀬」という意味かも知れないという事だ。

確かにこの尾根は、長与地区と喜々津地区を隔てている。

地区の境界線の意味合いが強い地域名だったと推測できる。

これもまた、想像の域を出ない。

古文書が発見されればわかるかも知れない。

郷土史家の方々に期待したい。

この間の「間の瀬」を矢上側に降りると、長崎街道に出る。

ここには八郎川がある。

解説 八郎川(はちろうがわ)は、長崎市の古賀・矢上地区を南へ流れ、天草灘へ注ぐ二級河川である。

東長崎地区の中心河川で、流域は長崎県長崎市に属する。

川の名は「鎮西八郎」と呼ばれた源為朝に由来している。ウィキペディア

この地域は中里町という。

地名に不思議はない。

その奥が「船石町」という。

そして山側に「二双舟」という地名がある。

「船石町」「二双舟」という地名は珍しい。

まず「船石町」を調べる。

色々調べる内に「役行者」と「お船石」というのが出てきた。

解説 役行者が乗ってきたといわれるお船石は、志津摩海岸西側にある巨石です。 (伝説) 

むかし、老夫婦が漁に出たところ、老爺が小岩に登ると突然岩が陸に向かって動き出した。

老爺はあわてて老婆を岩に引き上げ、二人して懸命にお祈りをすると岩は止まったので、安心して老爺は海に潜り、老婆は岩の上で眠ってしまった。

すると今度は海に向かって動き出したので、急いで老婆を助け下ろした。

いつしかこの岩は男が乗ると陸へ、女が乗ると海に向かう「お船石」と呼ばれるようになった。

お船石

お船石

志津摩海岸とは、静岡県賀茂郡東伊豆町ではあるが、この事かも知れない。

八郎川の川沿いにある船石町の近くには、五穀神社、古賀八幡神社、毘沙神社、少し離れて役行者神社がある。

この地域に多くの神社が集まっているという事は、長崎街道による人の往来が多かった事と、色んな地域の人たちがここに住み着いたという事だ。

そんな地域にある役行者神社の背後にあるのは、行仙岳だ。

行仙岳(ぎょうぜんだけ)は 奈良県十津川村にもある。

名前の通り、修験道の山である。

ここにも長崎の修験道の形があったのだ。

役行者が始祖の修験道が長崎に根付いていたという話しは、 長崎の原風景(3) 野母崎の葛城の神と土蜘蛛 に書いてきた。

「船石」という地名は、「岩」を役行者の術で舟に変えた話から来ていたのだ。

いよいよ「二双舟」だ。

しかし、どんなに検索しても、折り紙の「二双舟」しか出てこない。

古代より、海と共に生きてきた日本人だ。

南太平洋ポリネシアの原住民が、古来より用いていたカタマランという双胴船みたいのが、何処かにあると思っていた。

しかし、なかった。 日本の海人族は双胴船を選ばなかったのだ。

双胴船は安定しているが、ひっくり返ると元に戻らないという弱点が海人族が採用しなかった理由だろう。

更にしつこく、色んな言葉に換えて検索してみると、「持双船(もっそうぶね)」というのが引っかかった。

鯨を捕った後、陸地まで引っ張っていかなくてはならない。

その時に、「持双船(もっそうぶね)」二隻の船の間に太い柱をわたし、それにしとめた鯨を結びつけて運ぶとある。

どうも違うようである。 そこで、視点を変えてみた。

「役行者」と「お船石」は、「岩」を役行者の術で舟に変えた話である。

その話が地名になったのだ。

「二双舟」という地名も、何かの伝説から来たのではないかという事だ。

例えば、折り紙の「二双舟」を役行者の術で舟に変えたというものではないだろうか。

二双舟

二双舟

検索では「役行者」と折り紙に関係した伝説はない。 が ありそうな話しである。

今回の「船石町」と「二双舟」の地名の謎は、これで解けた。

不思議だと思える地名にも、深い意味があった。

欲を言えば、古文書や遺跡などの裏付けが欲しい。

学者の皆さんに期待したい。 よろしく。  

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