「対馬奪還」 作戦失敗!! 高来の大事件

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諫早市白木峰町  白木峰高原で撮影したコスモス

奥に薄く写っているのが有明海と長崎半島 撮影 アートワークス            

高来の名前の元は「高来津座」(高来郡の豪族か王)である。

肥前風土記で有名な文だ。 肥前風土記は他のHPにたくさん掲載されているのでここでは掲載を割愛する。

高来郡

島原は有明海という、他に類を見ない干潟を持っている土地である。

だから、この地には旧石器時代から縄文時代の遺物が大量に発見されている。

出土量は全国でもトップクラスとある。

もう一つ原山ドルメンがある。

ドルメンとは石で支えられた墓で、この場所は日本最古最大の支石墓群である。

原山支石墓群(原山ドルメン)

原山支石墓群(原山ドルメン)

世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれているが、日本のドルメンは朝鮮式がそのまま受け継がれたのてはなく、日本流にアレンジされたものだという。

原山ドルメンは弥生時代早期に造られたものなので、この地の人々はかなり標高の高い地に住んでいたと思われる。

5から6世紀に造られたと推測される守山大塚(もりやまおおつか)古墳という巨大な前方後円墳

守山大塚(もりやまおおつか)古墳

守山大塚(もりやまおおつか)古墳

また「高下古墳」(鬼の岩屋)と呼ばれる直径18m前後の円墳がある。

鬼の岩屋古墳(高下古墳)

鬼の岩屋古墳(高下古墳)

鬼の岩屋という名称は、巨石を使った古墳につけられるのが一般的である。  

以上のことで、この高来郡地域には古代より、多くの人々が住み着き、一つの国を形作っていたと思われる。

げんに肥前風土記では高来郡は9郷21里有ったとしるされている。

長崎のソノキ郡は4郷7里とある。

記録によれば長崎の倍以上の人口がいたことになる。

そして、その代表が「高来津座」という人物だった。

高来津座(たかつくら)とはどんな人物だったのだろうか。  

高来津座は、たかつくら、たかつつくらと、読み方が記されている。

肥前風土記って全文漢字だから誰かが、(たかつくら、たかつつくら)と読んだと思う。

この読み方が正しいとされている。

津座という文字の読みは決まっているわけではないが、 磐座(いわくら)という言い方がある。

磐座(いわくら)は巨石信仰であり、鬼の岩屋の古墳も巨石であるので的を得ている。

しかし、津座という言い方が一般的ではない。

一般的に津というのは港である。

長崎にも時津という港がある。

高来津座という人物が文字通りいえば、高来の港の座長てな感じかなと思うのである。

どちらでもいいと思うかも知れないが、磐座と津座では、僕は大きな違いだと思う。

高来文化圏が、山に根ざしていたか、海に根ざしていたかということに繋がっている。

高来郡の山の雲仙はもちろん、大きな信仰だったのだけど、目の前が有明海である。

海による交通手段が発達していたはずだ。

雲仙の土着民の国というより、海から渡ってきた民達の国と捉えるほうが自然だと思う。

当然「お山雲仙」の信仰は大きい。

雲仙温泉

雲仙温泉

これは否定できない。

雲仙では霊山として山岳信仰(修験道)が栄えた。

『古事記』にて筑紫島をあらわす一身四面の神、四面宮(温泉神社)もある。

雲仙に山岳信仰文化が、活発だったのは事実である。

一般的には高来津座の文字から、高い峯の土着の豪族という事になっている。

しかし、高来が高い峯以外にも、違う可能性がある。

高麗

写真 http://navicon.jp/article/10077/

それは高来を「こうらい」と読む読み方である。

松本清張氏の説である。 「高麗」を「高来」と書きこれを「たかき」と読み変え「高木」と書いた。

松本清張

松本清張

僕もこの可能性はあると感じる。

高麗大陸系の一族が高来津座のベースになっていたんではないか。

高麗の建国は918年から943年とある。

「高麗」のベースは高句麗である。

中原高句麗碑などの碑文によれば5世紀中頃には「高麗」と自称していたとある。

読み方は「こま」という。

神社にあるこまいぬもここからきている。

喬木の地にある高下の地に五万長者という豪族がいたという。

五万(ごまん)とは高麗(こま)のことだとおもう。

高来もこうらい=高麗(こま)である。

また高来郡に「唐比」という地名がある。

森山町という場所で海に面している。

高来郡が直接、大陸と繋がっていると考えたほうが分かり易い。

九州は有明海文化圏といってもいいゾーンが有った。

可能性はたくさん有る。

1.有明海の湾奥には諫早平野、筑紫平野(佐賀平野、筑後平野)、菊池平野、熊本平野といった沖積平野が広がり、いち早く稲作文化が根付いていた可能性は高い。

2.古代九州の有明海沿岸、筑後水沼郡・山門郡周辺一帯は安曇族の支配下にあったという説がある。

http://lunabura.exblog.jp/20551121

安曇族は呉から来た民なので漢字を知っていたそうです。 それは当然だと思います。

安曇族は北の叶の浜(志賀島)と南の榎津(有明海)という筑紫の国際港を二つとも掌握していたことになります。

3.福岡県みやま市瀬高町太神地区の祭事には「日月星辰(じつげつせいしん)の幡」が使われているという。 「辰」は日、月、星の総称のことで、天体や空の事とある。

「日月星辰の幡」には日、月、釣り針、北斗七星が書かれている。まさに海人族の旗である。 「有明海」と言う漢字にも「日」と「月」が「有る」と表記している。もしかすると「有明」と言う名前は安曇族が付けたのかも知れない。

4.有明海に面してる佐賀には、大陸からやってきたという徐福伝説がある。

5.吉野ヶ里遺跡がある。

6.http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif

金銀宝飾品の出土分布図

7.平安初期の800年代、大陸の新羅の海賊が度々九州北部に来寇している。 この新羅海賊は有明海に入って熊本まで姿を現わしていたという。

ありすぎてキリがない。  

もともと九州は、長崎の「土蜘蛛」熊本の「熊襲」「隼人」達の本拠地である。

この時期、大和政権の力は、この地を完全に掌握していなかったと考える方が自然である。

また、高麗の説に関してだが、ただの語呂あわせではない。

関東地方には、大陸からの人達が大勢いたというのは事実である。

しかし、渡来伝説を否定する人達も多いのだが、現実に伝承や地名に多くの証拠が残っている。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kodai-musashigaku/newpage70.html

関東の話しであるが、記録によると、716年(霊亀2年)、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野7国の高麗人1,799人を武蔵国に移して高麗郡が置かれた。

神奈川県中郡大磯町高麗(こま)に鎮座する高来神社(たかく じんじゃ)。

高麗神社とも呼ばれる。社名は一説に朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に由来するといわれる。

高麗神社(こまじんじゃ

写真 http://artbi456.blog.fc2.com/blog-entry-161.html

長崎県の高来郡の名称が、大磯町高麗(こま)に鎮座する高来神社(たかく じんじゃ)と繋がりがあるという考えは、自然と思われる。

どう考えても、有明海一帯に大陸の影響が全くなかったと考えるほうが不自然である。

しかし、ドルメンの話でも出てくるが、朝鮮や大陸の文化が伝わっても、それをそのまま受け入れているのではない。

ほとんどが日本風にアレンジされている。

これは縄文、弥生時代からの古代人気質である。

ここがポイントなのだ。

溶け込み独自の文化を生み出していく。

だからこそ、自然に混合文化が根付いていくのだ。 そんな高来で、大事件が起こった。

擬大領の暴挙(866)

この山春永が新羅国人の珎賓長と共に新羅に渡り、現地の者に「兵弩器械」、つまり軍事用の石弓の製造法を教え、その彼等と伴って対馬国に押渡、この国を討取ろうとしているというのである。

しかも、この謀議には藤津郡葛津貞津、彼杵郡の人永岡藤津、それに高来郡の擬大領である大刀主(たちのぬし)らも加わっているというのである。 『高来の風』外山幹夫 著

これらは未遂に終わっている。

首謀者は山春永(やまの-はるなが)は高来郡の近くにある肥前基肄(きい)郡の擬大領(郡司候補)である。

その当時の権力者である。

しかし郡司ではない。

高来郡の擬大領の大刀主(たちのぬし)も同様である。

明智光秀のようにナンバー2の謀反だと思える。

その権力者と朝鮮にわたり,兵器の製作技術を学んだ新羅国人の珎賓長(ちん-びんちょう)という人物が共謀している。  

この事件でびっくりするのは、「新羅」という大陸の国に渡り、「対馬」を乗っ取るという国際的なスパイのような行動である。

現在でもそうだが、朝鮮は「対馬」を自分の国だと思っている。(いまでもそうおもっているひともおおい)

これらの首謀者達は、大陸系、朝鮮系の人達だろう。

根っからの倭人なら、「対馬」をのっとっても帰る所がない。

首謀者の山春永(やまの-はるなが)だが、日本風の読み方をしているが、三文字の氏名は大陸系の名前である。

この事件は平和な田舎の都市に突然起こったような印象だが、実は律令国家の仕組みが、徐々に地方を治外法権的にしていった、時代の背景がある。

隣国新羅の多数の難民が日本列島へ亡命し、大量に帰化を申請する事態が発生していた時代である。 新羅の海賊達は頻繁に九州で事件を起こしていた。    

この文章で言いたいのは、8世紀の九州は、のどかな地方ではなく国際紛争が多発している大混乱の場所だったということである。

そして高来郡もその主役級の働きをしていたという事実を記したい。


  参考・引用 『高来の風』外山幹夫 著

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