日並郷の火首・火渡・火篭の謎を解く

先日長崎新聞のローカル紙面に、地名の謎を探るという記事が掲載された。

「時津・日並の火首(ひのくび)、火渡(ひわたし)、火篭(ひごもり)」という地名についてである。

大見出しには「火の玉?キリシタン弾圧の歴史?」とある。

僕も大いに興味がそそられたので、調査することにした。

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時津

江戸時代は大村藩領で、時津港は彼杵港(現: 東彼杵町)との間に船便があり、長崎街道の近道として交通の要衝だった。この「時津街道」は大名や幕府の役人にも利用され、そのため時津は港町・宿場町として発展した。現在もその名残として「お茶屋」と呼ばれる大名や幕府の役人が宿泊するための屋敷が残る。

全国的に有名なのは、時津港の「日本二十六聖人上陸の碑」であろう。

さばくさらかし岩(継石坊主)も長崎人なら誰でも知っている。

最近は開発がめざましく、成長している町である。

時津町のホームページには簡単な歴史が書いてあるだけだ。


時津町のあゆみ

時津町の起源は、はっきりはしませんが、鎌倉時代には「時津」と呼ばれていたようです。
中世の開発時代起源には、荘官あるいは地頭として時津氏一族が活躍し、少なくとも室町時代には大村領に属していたようです。また、大村氏が、中岳城の一戦に敗北して、一時期、有馬氏に領されたこともありました。 時津町ホームページ

武家政権が成立して長崎にもいろんな武将がやってきている。

「時津氏」も時津の地にやってきたので「時津氏」と名乗ったのだろう。

時津は神功皇后が上陸したという記録があり、時津町子々川(ししかわ)郷前島・ダケク島前島には古墳群が発掘されている。

時津は古代より港として大いに活用されていたと思われる。


日本辞典には「トギツ」は「トキツ」の音が変化したとされる、とある。
http://www.nihonjiten.com/data/249553.html

本来の読み方が「トキツ」だとすれば、一番当てはまるのは

ときつかぜ(時つ風)
ほどよいころに吹く風。時節にかなった風。順風。

ときつくに(時つ国)
四季が順調にめぐり、よく治まっている国。

この言葉から「時津」になったと思われる。

時津と鯨

「鯨津」も「くじらつ」ではなく「ときつ」と読む

これはいろいろ調べていたら出てきたものだ。

現実に「鯨津(ときつ)」さんの名字も九州の長崎、佐賀に多い。(全国でおよそ110人)

鯨津がなぜ「ときつ」なのかという説明があった。

鯨波(とき、げいは) 大波や 鬨の声「えいえい おうおう」をあらわす。
「とき」という大和言葉に「鯨波・鬨・時」という字が充てられたようで時間や間合いや機会といった意味で使い分けられていたとする説がある。ウィキペディア

大村湾には現実に鯨がやって来るし、長崎の東彼杵は鯨料理が有名である。

鯨料理が有名なのは、江戸時代初期に彼杵に九州で最初の捕鯨基地を作られたことに、由来するそうです。

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当時くじらの宝庫であった五島灘や対馬海峡で捕えたくじらを彼杵港から九州各地へ運んだことから、くじらの流通拠点としてにぎわうようになりました。

amebatoysの佐世保ブログ
http://ameblo.jp/amebatoys/entry-11092389574.html


最近でも、2015年11月26日大村湾にミンククジラの死骸が発見された記事が朝日新聞に載っていた。

長崎市内も鯨料理を食べられる店も多いが、その鯨は時津港から運ばれたものだった。

鯨の港で、鯨津「ときつ」。

それが「時つかぜ」の慣用句のように穏やかで平安という意味の「時つ」と重ねたのかもしれない。

時津港が鯨と深い関わりを持つことがわかる。


恵比寿

あと一つ鯨に関係していると思われるものがある。

「恵比寿」様である。

現在時津港に行くと、恵比寿様が4体設置されている。

時津港の恵比寿

時津港の恵比寿

港に恵比寿様があるのは珍しくないが、「恵比寿」も鯨を意味する。

東北、近畿、九州の各地方をはじめ日本各地で、鯨類を「エビス」と呼んでいて、恵比寿の化身や仮の姿と捉えて「神格化」していた。ウィキペディア

時津という地名はそんな意味も含まれている地名だと思う。


日並郷

さて本題の「日並郷」の話しに戻る。


「時津・日並の火首、火渡、火篭」で火の文字が使われている謎である。


日並郷は海に面している地域である。

子々川郷(ししがわ)、久留里郷(くるり)が両サイドにある。

鎌倉時代に長崎氏・浦上氏・長與(長与)氏・時津氏・久留里氏らの氏名が記録されている。

それより前の記録は風土記などだが、古事記にも日本書紀にもソノキ郡(長崎)は土蜘蛛のすみかだと書かれている。

何を言いたいかというと、この地域にはそれなりの文化が根付いていたということである。


新聞には学芸員の方の話が載っていて

「昔、火の玉が集まって火首池にあつまり、火渡の山に飛び、最後は火篭にこもって消えた。日並という地名も本当は火並と書く」

そんな怪談話のような伝説だった。

「火」が付くので「火の玉」を連想させたのであろう。

文献にも載っていないのだが、現実に地名として残っている。

この日並郷の地名の「火」とは何だろうか。

長崎は「肥の国」である。

はるか昔は「火の国」と呼ばれていた。

それは、雲仙や熊本の阿蘇山や不知火などからつけられたと推測できる。

長崎に「火」の地名が残っていても、実は不思議ではない。


しかし、「火」は「肥」にかえられていく。

「火並」も「日並」に変っていった。

しかし、「火首、火渡、火篭(ひごもり)」は地名として残っている。

という事は、火の国が肥の国となった違う事と違う理由があるのだ。


この火のつく地名は、日並郷に存在する。

とすれば「日並」という地名にすべての謎が隠されているといっていいだろう。

日並(み)とは
1 日のよしあし。その日の吉凶。日柄(ひがら)。「―がよい」
2 毎日行うこと。日ごと。
3 日取り。日付。
デジタル大辞泉

とある。

日並という名字

現京都府北西部と兵庫県東部である丹波国日並村が起源(ルーツ)である、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)武田氏族。宗像神社社家は清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)。近年、岡山県に多数みられる
名字由来net

丹波国は京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部にあたる。

直感だが丹波国の日並村は違うような気がする。


伊能忠敬『測量日記』によると

十二月二日 曇天。四っ頃(午前10時頃)より雨と雪。坂部は日並村に逗留する。余りの者は日並村(時津町日並)を出立した。

とあり江戸時代(1800年前後)には日並村があった記録がある。

日並は日並と書かれており「火並」とは書かれていない。

そこまでしかわからなかった。

地図

行き詰まってきたので地図を見ることにする。

地図をよく見ると、206号線に熊野神社があった。

キャプチャ

それと中山ダムのそばにも熊野神社がある。

中山ダムのそばの神社の場所は日並ではなく子々川郷だが日並郷との境界線近くである。


それ以外には時津町元村郷に祐徳稲荷神社が2つある。

元村郷は平野で賑やかな地域である。商売繁盛を願ったお稲荷さん信仰は了解できる。


熊野神社は熊野三山の祭神の勧請を受けた神社である。

修験道につながり山伏達の信仰でもある。


長崎は山国だ。

各地の山々に山伏達は多く、時津の山にも熊野神社があるということは、この地には山岳信仰が息づいていたと推理しても突飛ではない。

新聞にも載っていたがキリシタンの影響があるのかもしれない。

「天火」という言葉がある。

キリスト教が長崎に広く伝わっていた時期に、キリスト教信者が、神社仏閣を焼き打ちした事件が相次いでおきた。

その時キリスト教信者たちは「天火じゃ」といって神社やお寺に火をつけたとされている。

この事が原因だろうか。

それとも、キリシタン弾圧の為に「火」による拷問が地名の起こりだったのか。

しかし、火渡はなんとなくわかるが、火首(ひのくび)や火篭(ひごもり)という名称は、長崎で行なわれたキリシタン弾圧の拷問にはなかった。

さらに、読んでもおぞましい拷問を地名としてつけられているのも納得がいかない。

これもまた直感だが、関係ないと思う。

別の角度からの推理

火首、火渡、火篭(ひごもり)の資料が見当らないと新聞に書いてある。

こうなると、ネットの検索は役に立たない。

考え方を変えることにした。

それは地域である。

火首と火首池は山手にあるという。

火渡も山である。

火篭(ひごもり)は海岸付近である。

ということは火首と火渡は山手にあるという。

火篭(ひごもり)と微妙にニュアンスが違うのかもしれない。


火首という地名は気味が悪いが、首のつく地名は長崎にある。

土井首、毛井首である。

首というのは首のようにキュッと締まった地形のことをいう。

火首が地形だという証拠はないが、地図を見れば山と山の間が締まった地形である。

そう考えると「火」が燃える火ではなく「火」という地名ということになる。

しかし、どうもピンとこない。

火の首が地形だという説明が地図を見ても言い切れないのだ。


保立目(ほたてめ)

もう少し地図を見る。

日並郷の奥まった所に「保立目(ほたてめ)」という地名があった。

珍しい地名である。

そこで一応検索してみた。

しかし、それが謎解きの発端となった。


佐世保に保立町(ほたてちょう)という地域がある。

地名は「火断(ほたち)」の神事に由来するといわれる字「保立目」からと書かれていた。


そう日並郷の「保立目」は「火断(ほたち)」という神事からきていたのだ。


神事

そうすると「火渡」も神事の可能性がある。

山伏の修行に火渡り(ひわたり)がある。

火渡り(ひわたり)とは熱した炭を敷き詰めたその上を裸足で歩くことある。


「火」を使った神事はたくさんある。

出雲大社では毎年11月23日の古伝新嘗祭の際、全ての食事が熊野大社から授かった神聖な火で調理される。

「火断(ほたち)」という神事というのはわからなかったが、火の物断ち(ヒノモノダチ)という神事がある。

祈願のために、火を通した物を断って食べないことをいう。

火断(ほたち)神事は同じような意味だと推測される。

火首金剛

火首を「首地形」と考えたが、こうなってくるとそうではなさそうだ。

再度いろいろ探したら、中国の文献に「火首金剛」という神様を発見した。

火首金剛

火首金剛

日本語に訳すると「烏枢沙摩明王」というらしい。

烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)は、密教における明王の一尊だった。

火神・厠の神として信仰されている。

烏枢沙摩明王

烏枢沙摩明王


これだ。

火首、火首池は、火首金剛「烏枢沙摩明王」を祀った祠があった場所に違いない。

火篭(ひごもり)

のこりは火篭(ひごもり)だけである。

この地名だけは海岸にある。

違う意味があるはずだ。

火篭(ひごもり)とよんでいるが、火の篭(かご)が正解かもしれないと思う。


篭は籠(かご)とも書き、とは、短冊状ないし細いひも状の素材をくみ合わせたり編んだりして作成した運搬を目的とした容器の総称である。

海岸に火篭(ひごもり)の地名があるということは

「こもる」という意味ではなく、「かご」という意味で、

火の神事のための神聖な火種をかごに入れて持ってきた場所だとではないだろうか。

かごは燃えるので、火を直接入れることは出来ないが、持って歩くことは出来る。

それは提灯である。


提灯の始まりは、中国から伝えられた、折りたためない「かご提灯」であったことが、室町時代末期の文献にあります
https://readyfor.jp/projects/suifuchochin/announcements/30230

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中国の火取り篭(ひとりかご)
火取という,香炉の上をおおう金網の篭

もしかすると鵜飼いの時に使うかがり火を入れる「火籠」のようなものかもしれない。

鵜飼い(うかい)は、鵜(ウ)を使ってアユなどを獲る、漁法のひとつ。中国、日本などで行われていた。篝は鉄製で、火籠の深さ1尺、底径6寸、口径1尺4寸、これに長さ7尺5寸の柄をそえて、舟の舳に差し出す。

鵜飼い

鵜飼い


火並

火を神事として使う時、出雲大社では熊野大社から授かった神聖な火を使う。

出雲大社 神迎祭

出雲大社 神迎祭

日並の場合もそうだと思う。

日並とは「火並」ではないだろうか。

つまり、神聖な火種を入れた篭(かご)を並べておいたのではないかと思う。

つまり「火を並べた地域」で「火並」。

それが「日並」となったと推測する。


火を使った神事は日本中に存在する。

時津町に2つもある祐徳稲荷神社にもある。

お盆の灯籠流しもその一つである。

火焚き神事
熊野大社の境内に、神器の火鑽臼(ひきりうす)と火鑽杵(ひきりきね)を保管する鑚火殿(さんかでん)という建物があり、燧臼・燧杵は、古代の人々が火を熾す際に使った道具である。神社の祭りや神事では、この道具を神聖な神火を鑚り出す方法として今も使用している。


火焚神事(ひたきのしんじ)
熊本県阿蘇市の阿蘇神社で,8月 19日~10月 18日に行なわれる神事。摂社である霜神社の神の天神の森への神幸に始まり火焚殿に渡した神に乙女らが昼夜火を焚き,最後に火の中を素足で舞い渡る火の神楽で終わる。

お火たき
お火たきは稲荷神社の秋の祭の神事として行はれ、春の初午に相対する祭事であります。
昔は旧暦11月8日に行はれておりましたが、現在祐徳稲荷神社では新暦の12月8日新嘗祭の夜の神事として行はれております。
この祭儀は日没から夜にかけて行はれ、宮司の祝詞が終ると御神前の浄火が松明に移され、それを更に境内に設けられた「お山」(大小の木々を積み重ね青竹で囲んだもの)に点火されると一斉に燃え上がります。


日本の神道や仏教には拝火教(ゾロアスター教)の影響が強く、いろんな場面で火を使う。

時津町も特別ではなく、火を使う神事が行なわれていたのだろう。


しかし神事は途絶えてしまった。

たぶんその理由はキリシタン信者による神社仏閣の焼き討ちだろう。

長崎の神社仏閣はほとんど焼き討ちに遭っている。

だから、創建1600年以前の由緒を持つ寺はとても少ないのだ。

そして、その狂信的なキリスト信者達に対抗したのが山伏達だった。

山伏達はしぶとく生き残り、神事を伝えていったと思われる。

いつしか熊野神社の山岳信仰も次第に弱まり、神事の名残を残す地名だけが残ったのだ。


まとめ

時津町の日並郷の火首、火渡、火篭は神事が行なわれた地域だったのだ。

火首とは火首金剛の事である。

火首金剛は日本では「烏枢沙摩明王」と呼ばれ、火神・厠の神として信仰されている。

火渡は密教の熱い火の上を渡る修行である。

火の文字は付いていないが日並郷「保立目」は「火断(ほたち)」の神事から付いた町名だ。

そして海岸沿いにある地名「火篭(ひごもり)」とはその神事に使う火を準備するための篭か、遠方から火種を持ってくる篭のことをいうのだ。

そして、火の篭を並べた様子から、火並びと呼ばれ、文字が変り「日並」となったと推測される。


新聞にあるとおり、資料らしきものはほとんどない。

日並郷「保立目」という地名と熊野神社だけが手がかりとなった。

この推理は間違い無いと思う。


しかし、裏付けする文献がない以上世に出ることはない。

それが少し残念である。

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コメント

  1. 関浩成 より:

    興味深く読ませていただきました。ありがとうございます。この、保立目は、僕の母の大きな実家がある場所です。
    母の一族、森家は鹿児島から来た武士の一族だと聞いています。
    初代が来たのが多分江戸期なので、名称変更や神事の存在の件は分かりませんが、周辺でキリシタンが複数首をはねられたようです。

  2. artworks より:

    コメントありがとうございます。

    推理の域を出ませんが、自信がある件でした。時津は昔重要な港だったに違いないと思っています。
    記録や文献がないのが残念ですが、まだまだ調べてみたいと思っています。

  3. 時津部屋 より:

    自分は久留里郷に住んでいて先日たまたま火ノ首のバス停を通った時に日並って元々火並って地名だったんかなって思って検索したらすごく面白くてすぐ読み終えてしましました。火ノ首って地名は日並のてっぺんのところにあるから火ノ首って地名になったのかなって思っていましたが色々な考え方がありますね。

  4. artworks より:

    コメントありがとうございます。時津は古代より栄えていたことは間違いないのですが、なにせ記録がありません。しかしとても重要な場所だったような気がします。