諌早 謎の高麗小路(こうらしゅうじ)
諌早のアエル商店街(栄町)の近くに恵比寿様が祀られている小さな水路があり、そこには整備された小さな橋がかかっている。
恵比寿様の脇の石畳に
『この石畳の通りは江戸時代以前より高麗小路(こうらしゅうじ)の通称で親しまれています』
と大きく書かれているタイルが埋め込まれている。
諌早には高城回廊という水路が多くあり、珍しくないのだが、高麗小路(こうらしゅうじ)という名称が気になった。
この路地には、小さな高麗橋があり、高麗井戸というのもある。
ネットを調べればすぐわかると思って調べてみると、これに関するデータが全くない。
今の時代、かなり小さな事でもネットで調べれば大体のことはわかる。
ところが、諌早のことは極端に少ない気がする。
本当である。
誰も書かないのかな・・。
僕は諌早市に縁がある。
諌早コンピュータカレッジと長崎日大高校で講師をやっていた期間が何年もある。
実は現在も諌早の会社に通っているし、諌早のんのこまつりのホームページも制作している。
さらに、もう20年以上も諌早に通勤しているのに、知らないことが多い。
長崎の事はムキになって調べるのに、同じ長崎県なのに隣の市の事は無知である。
ネットにもデータがほとんどないので、これからは自力で調べることにしようと思う。
タイトルに「謎の高麗小路」と書いたが、たぶん謎でも何でもないのだろう。
ネットに資料がないので僕が知らないだけである。
そこで推理してみることにした。
諌早の西郷氏
諌早市は長崎勢、大村勢、島原勢、佐賀県勢が入り乱れて覇権を争っていた。
諫早市のホームページにその歴史の概略が書かれている。(さすがにこれくらいはあった)
鎌倉時代に「伊佐早村」という文字が初めて登場する。
南北朝の時期に埋津川を境に西郷氏が南朝方、北側は船越城を居城とする伊佐早氏と分裂した。
結局1392年に南北朝合一がなされ西郷氏がこの地方を治めることになった。
西郷氏は土木技術にも優れ、用水路整備・干拓・開墾などに取り組み、いっぱしの豪族となる。
この西郷氏が整備した小路の一つが「高麗小路」ではないかと推測している。
一つ疑問なのは、読み方である。
小路を「しゅうじ」と読むのである。
近所には東小路、西小路とあり、「こうじ」と読む。
この「しゅうじ」といういう言い方は、ふるい読み方という。
デジタル大辞泉の解説
しょう‐じ〔セウぢ〕【小路】
狭い道。こみち。こうじ。辞典では「しょう‐じ」とあるが、ここでは「しゅうじ」となったのだろう。
(長崎は結構方言がきついので、転化したことは充分考えられる)
という事であれば、東小路、西小路も公家の名前から来たのではなく
昔はみんな「しょうじ」と読んでいたと思われる。
「高麗」の名前の由来だが、
高麗(こうらい)とは、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島を統一して、1392年まで続いた統一王朝である。ウィキペディア
特別、関係がありそうもないのだが日本には大事件が存在する。
それは元寇である。
高麗は1259年にフビライ=ハンの率いるモンゴル(元)軍の侵攻により属国となります。これに対して、高麗は三別抄(さんべつしょう)と呼ばれる選抜部隊が奮闘し対抗するのですが、
これも1273年には完全に鎮圧されてしまいます。そして、1274年には元により高麗水軍を前面に立てた日本攻撃が始まるのです。文永の役ですね。さらに1281年には再び日本に攻めてきます。弘安の役です。
元寇は長崎まで攻めてきたという記述もあるので、諌早にも何らかの影響があったのかもしれない。
しかし確信はない。
高来はこうらい
もう一つ可能性を考えた。
西郷氏が諌早を整備したことは前述した。
その西郷氏だが
西郷氏は菊池氏の一族とされ、戦国時代の頃には、有馬氏配下として肥前の伊佐早荘(現在の諫早市及び北高来郡)に勢力を持ち、有馬氏の東肥前に対する前線を守っていた。
有馬氏が衰退し龍造寺氏の勢力が増すと有馬氏から離反し、龍造寺氏へ従うようになる。ウィキペディア
陣の辻古戦場(諫早市小川町)
勢力範囲は高来郡がベースであったとされている。
高来は「こうらい」とも読める。
もしかすると「高麗小路」は昔「高来小路」だったのではないだろうか。
「高来小路(たかきしょうじ)」が「高麗小路(こうらしゅうじ)」となったのではないのか。
いずれにしてもその証拠が必要である。
恵比寿
あと「恵比寿」様だが、現在は埋め立てが進んでほとんど平野になっている。
恵比寿様といえば海岸なのだが、商売繁盛の恵比寿様かもしれないと思う。
しかし「埋津川」の地名があるように、中世の諌早地域は海岸線がかなり内陸まで入り込んでいたのかもしれない。
中沖町、船越町なんて町の名前がある。
もっと諌早市の中世の地形を知る必要があるかもしれない。
「高麗小路」ちょっと謎の小さな路地である。
通りすがりですが、気になってしまいコメントです。
http://tabi.tobu.co.jp/playing/hiking/topics/town-experience/201205_b/
こちら、埼玉には高麗郡(こまぐん)があり、高句麗(こうくり)出身の渡来人を高麗人(こまびと、こまうど)と呼ぶ。戦乱によって故国を失った高麗人を集めて設置したようです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1114908431
更には、同時期、九州などにも同様に(?)帰化した高句麗出身者が集まって暮らしていた集落が残っているとの回答もありました。
知恵袋の回答のソースは調べて無いのでふめいですが、上記のことから
高句麗出身者の帰化した人たちが諫早の高麗小路にも集って住んでいたのでは無いかと推測しました。
既に2年以上前の記事なので、解決していることかもしれませんがちょっと気になったものでコメントさせて頂きました。
連投になりますが、小路 しゅうじ については、佐賀県では「しゅうじ」という読みが古くからあったようです。
https://www.arita.jp/spot/post_48.html
【上記より抜粋】有田では町中の狭い通りを小路(しゅうじ)と呼び、家の前の道の突き当たりに柿の木があったことから「柿の木小路」と呼ばれていました。
コメントありがとうございます。朝鮮半島の住人が日本へ帰化した集落が諫早にあるのかどうかをだいぶ探してみました。佐賀県の稲佐山神社は百済王一族が亡命しているので、その一派という可能性もありますが、肝心の諫早にそれらしい証拠がないので謎解きは止まっています。
ただ一つ引っかかる名前が諫早の「化屋(けや)」という地名で、朝鮮半島の「伽耶」という国の名前と同じではないかという説が有ることです。
また擬大領の暴挙(866)という事件は、諫早で起こった新羅国人達のスパイ活動の失敗ですが、確かに諫早はきな臭い匂いはするのです。
「対馬奪還」作戦失敗!! 高来の大事件
http://artworks-inter.net/ebook/?p=1049
私も、もう少し探してみるつもりです。