宇佐神宮 死拍手
宇佐神宮は謎の多い神社で気になっていた。
朝6時30分くらいに、宇佐神宮へ行き撮影した。 素晴らしいの一言に尽きる。
思っているよりかなり広い境内で、池もあり様々な神社も建っている。
朝、誰もいない神社には荘厳な雰囲気が漂い、濃い朱の鳥居や社殿は豪華。
これが八幡神社かとため息が出るほどだった。
福岡の宗像神社は、伊勢神宮と同じ雰囲気を持つシンプルに徹した純日本風と感じたが、同じ比売大神を祭っているこの宇佐神社はまったく雰囲気が違い、高野山のお寺のような雰囲気を持っている。
撮影した写真をフリーフォトとしてアップしているのでその差を見て欲しい。
この神社に出向いた理由は「四拍手の謎」を調べてみたかったからである。
宇佐神宮とは
大分県宇佐市にある神社。式内社(名神大社3社)、豊前国一宮、勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つ。
古くは八幡宇佐宮または八幡大菩薩宇佐宮などと呼ばれた。また神仏分離以前は神宮寺の弥勒寺と一体のものとして、正式には宇佐八幡宮弥勒寺と称していた。 現在でも通称として宇佐八幡とも呼ばれる。ウィキペディア
である。
薄暗い石段を登り詰めると、真っ赤な鳥居が現れ、その先には光に覆われた社殿が現れる。
シンプルだがドラマチックな演出だ。
正面には春日神社がある。
右に回る込むと国宝・二之御殿(比売大神)の立派な社殿がある。
わざわざ回り込ませるのも何か意味があるのだろう。
拝礼所に、拝礼の作法は「二礼、四拍手、一礼」と書いてある。
これが有名な井沢元彦氏の「死拍手」か。
井沢元彦氏の逆説の日本史シリーズで四拍手をたたく神社は日本中でも「宇佐神宮」と「出雲大社」しか無いとかいてある。
「四拍手」の「四」が「死」につながり、出雲大社も「四拍手」であるので、怨霊を封じ込めている神社ということである。
当然「死拍手」には沢山の反論もあるが、本としてはとても面白いと思う。
その四拍手である。
この豪華な社殿を見ていると、怨霊の封じ込めのための「死拍手」が小さな事に感じてしまう。
もっと、「大きなもの」をこの社殿は背負っている。
直感である。 やはり現場に行くことは意義がある。
先入観無しで「四拍手」を考えてみたい。
古代、魏志倭人伝には、邪馬台国などの倭人(日本人)の風習として「見大人所敬 但搏手以當脆拝」と記され、貴人に対し、跪いての拝礼に代えて手を打っていたとされており、当時人にも拍手を行ったとわかる。
柏手とはそう言う作法であり、それは古代からおこなっていたのである。
現代でいうと、大相撲の柏手がその儀式に則った所作である。
柏手は、魏志倭人伝の時代には人に対してもおこなっていた。
持統紀に、即位した新天皇に群臣が拝礼と拍手をしたとある。
持統天皇は日本の第41代天皇で在位は690年から697年だ。
逆をいえばそれまではしていなかった。
奈良時代では、天皇の即位宣命が読み上げられた後、参列した百官が拍手で応えたことが、『内裏儀式』元旦受群臣朝賀式にある。
その所作は跪(ひざまず)いて32回も手を打つという形式だった。
『日本後紀』延暦18年(799年)条の元日朝賀で、渤海使が参列していたため、天皇を四度拝むのを二度に減らし、拍手もしなかった。
これらのことを見ると、礼の表し方は頻繁に変更されていたようだ。
現行の「二礼二拍手一礼」という作法は明治8年に式部寮から頒布された「神社祭式」によるものらしい。
かなり新しい。
神の前で柏手を打つというのは、世界中で日本だけのようだ。
そう言われればそうである。 しかし、この柏手の元は古代中国から来ているとされる。
周時代に「振動(しんどう)」という拝礼の方法があり、周礼では、「振動」は敬い恐れおののいたときに手を打つ礼法であるとされる。 http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku267.htm
周は紀元前1046年頃から紀元前256年の国である。
王勇著 中国から見た日本像 http://www.geocities.jp/jiangnankejp03/book/jnihonzo/nihonzo_4-2.htm
柏手も、その起源は中国の古い礼法であるとする。
現在でも、神社の参拝などで柏手を打つが、この礼法も周時代の作法が、呉を介して倭人に伝わり、現在まで引き継がれていると考えられるのである。
「大祝は九拝に辨れる。一に稽首という。二に頓首という。三に空首という。四に振動という。五に吉拝という。六に凶拝という。七に奇拝という。八に褒拝という。九に粛拝という。もって右の祭祀を享する。」(7) 右文にみえる「振動」について、漢の大夫鄭興は「動」の音を「董」と示し、「振董」とは「両手を相撃つことである」と註記している。
この注記をうけて、隋唐時代の経学者である陸徳明は、さらに倭人の例を挙げて、釈文をつける。(『経典釈文』)
「今、倭人は拝してもって両手を相撃つ。鄭大夫の説くようである。けだし古えの遺法であろう。」
以上で明らかなように、周の大祝に用いられる九拝礼のひとつである「振動」とは、両手を撃ちあわせる柏手の礼法であり、漢代のころはまだ残っていたらしい。
つまり、日本にある礼拝の作法は、周時代の作法が日本に伝わったものとしている。
そしてその起源は、紀元前10世紀から紀元前3世紀だとある。
日本では弥生時代の頃である。
日本人の祖先論に、中国の呉と越はでてくる。
倭人というと日本国内の日本人を指すことが多いが、もっと大きく倭人が存在していたと考える人も多い。
つまり、中国の呉と越も倭人であったとする説である。
私もこの説には共感している。
狭い島国の中にいた人達だけが倭人の国ではなく、中国大陸、朝鮮半島、果てはモンゴルまで広く倭人たちは暮らしていたのではないかということである。
これは、大日本帝国などの考え方ではなく、日本語という独立言語がある事や、弥生時代に大陸からの渡来人が多数きていること等をすんなりと、理論的に説明できるからである。
日本人がきている着物は呉服であり、新潟は越と呼ぶ。
まあ、数え上げればキリがないが、柏手も中国から来ているというのは理解できる。
しかし、柏手を何回打つかまでは記載が無い。
神道には、外国の一神教とは違い、教義もなければ特定の神もいない。
何を祭っているかといえば、自然であり、祖先である。
だから、形式もローカルルールで統一されたものはなかったと思われる。
ただ、柏手を打つというのは続いていた。
1回打とうが5回打とうが自由だったはずである。
そうなると儀式よりもリズムというのが重要視される。
柏手はリズムである。
リズムといっても音楽ではない。民族として体に染みついているリズムのことである。
日本人のリズムは4拍子だといわれている。
日本の童謡はすべて4拍子という話しもある。
童謡を歌ってみればわかるが、3拍子の童謡は皆無である。
ところが、中国や朝鮮では3拍子の曲が多い。
たとえば「アリラン」等が分かり易い。3拍子は弾みがつき、躍動的である。
一般的には騎馬民族のリズムと呼ばれている。
しかし、日本文化は静的なリズムで抑揚をあまり出さない。
悪くいえば、乗りの悪い2拍子、4拍子である。
まあ、異説はあると思うが、この事を考えると、柏手は2回か4回が妥当なところであろう。
出雲大社、宇佐八幡、弥彦神社が4回。伊勢神宮が8回という事を思えば、神様によって回数が違う。
重要な神様は数が多いと考えた方が自然である。
奈良時代は32回も柏手をうった記録がある位だ。
伊勢神宮
伊勢神宮は朝廷の祖先神で、日本では最上級に敬意を払うので8回にした。
それ以外の神社は、遠慮して4回、もしくは2回にした。というのが妥当ではないだろうか。
拝礼の作法の「二礼、四拍手、一礼」の四拍手は格式のある神社という意味合いが強いのだろう。
怨霊などのオカルト的な話しを期待している人には悪いが、実際に宇佐神宮に朝早く行かれるとわかると思う。
派手で、豪華、湖を渡る石橋やくらい参拝の道。いずれも宗教を一つの演出として完成させている。
これを作った人は、固定概念がなく、感覚が研ぎ澄まされていると考えるはずである。
ここにオカルトは似合わない。
もっと大きな日本人の信仰の流れが存在している。
ちなみに4はシと読むけどヨンともよむ。
最初から数えると、いち、にい、さん、しだが、上から数えるとろく、ご、よんである。
4千円もヨン千円だ。
死拍手の話しはこれでおわりだが、肝心の八幡様は何者だという大きな謎が残っている。
とにかく、ミステリアスな神社である。
まず、四が「シ」と言うのは漢数字読みで、古来のヤマト言葉、和数読みは「ヨ」です。
ヨは、与、世、余、代、與、誉、輿、豫、予、預、夜、、、
呪い(のろい)の意味や音韻は皆無です
伊勢の神宮でも以前は一般参宮者ほかの正式な作法は
(一礼)、二拝、蹲踞(更に傾首して)四拍手、一拝、(一礼)。
とされていました(伊勢神官流)。
現在も、蹲踞礼を行っているのは京都の上下の賀茂社。
葵祭の際に天皇陛下から差遣された勅使から宮司が勅書を拝受する際に蹲踞の礼を以て行っています。
また、正月に上下の宮司が相互に社参して拝礼(非公開)の際にも蹲踞します。が、この際には拍手はしません。
上下の賀茂社は出雲王国(2600数十年前~約700年(最期は物部、豊国、但馬ほかの連合軍により壊滅的打撃を被り滅亡。しかし旧王家は残った))の分家が葛城に移り、更に時代の変遷の末に山背国(京都)に移り住んだモニュメントで王家の子孫末裔(カモ氏。カモ=神。神=王/貴人)ですから、、
これは、我が国の元来の拝礼作法(出雲王国時代~)に拍手がなかった事の現れではないか?
とすると、拍手は中国から渡来して帰化した徐福(道教のマスター。天皇家/物部の遠祖。吉野ヶ里が本拠地(都))らがもたらした可能性が考えられます
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伝統的に神道に於ける所作の基本単位が四で有ったと言います。
拝礼作法も、両断再拝とか、謹上再拝再拝。など都合、四拝を行っていたことはよく知られています。
伊勢の神宮に於いても四起拝 八開手(四拍+四拍)+ 単手一拍 一拝。(と、基本単位は四です)。
これを両度(祭儀の最初と最後に)行っています。
起拝は立拝+座拝を一段とした礼法。
四起拝だと都合八拝になります
出雲大社に於いても重儀に於いては八開手を打つとか?
、、、(8は出雲の聖数。もう一つ、三も出雲の聖数です)
八開手の更に正式(重儀)な作法が八開手を四度行う、天八開手で都合32拍手。
伊勢の神宮に於いては遷宮の際に奉られるとか?
伊勢神宮に於ける、明治以前の一般参宮者の作法は、
二拝。蹲踞。四拍手。一拝。
でした。
いまでも一部地元の方が氏神(伊勢神宮は地元民には氏神/鎮守さん)よろしく、件の如し。
お話の八拍手は、神道用語?で「八開手(やひらて)と言います。
単純に八拍手する訳ではなくて、僕が知る限りでは二種類あるようです。
4+4
因みに、四は神道における所作/動作の基本単位とされます。
四拍手以上を長拍手といい、三拍手以下を短手(みじかて)と言って厳密に区別されます。
拝礼作法も両断再拝(二拝+二拝/祝詞の文言では謹上再拝再拝)が少なくとも平安時代以降の神拝作法でした。
反対に歴史的にみても明治政府が強制した二拝二拍一拝(これも一定せず度々変遷が有った)~戦後、任意団体/一般宗教法人の神社庁(国や官公庁とは一切関係ありません)が改めて昭和29年に定めたのが
二拝。(祈念)。二拍。一拝。
の作法は
神々に奉り、最も非礼、無礼な作法と言って良いかもしれません。
四拝、四拍手や(その他)をしていたのを簡略化して強制的に統一化をしたモノですから
いにしえの出雲王国の元王家が言われる古式の作法は興味深いです。
曰く。
二拝。
三拍手(出雲(=日本の最高神)三柱の神々に由来)。
祈願は音声を発して(言魂にして?)神様にお伝えする事。
四拍手。
一拝。
出雲(日本の源郷であり、古代の首都)は
信奉する三柱の神々(併せて「幸(サイ)の神」と言う)に由来して三を聖なる数としました。
出雲の神社には屋根に乗る勝男木が何故か出雲大社でも三本しかない理由も同じ。
千木の×印はまさしく「幸の神」信仰に由来するモノ。
また、物事は后神(母神)から八方に広がる、
(出雲王は)八方(あらゆる)言葉に耳を傾け公平な判断をする
等から八も出雲の聖なる数。
いまでも身の回りの習慣、習俗、信仰に三や八に纏わるモノが溢れていますよね?
八開手の話に戻って、、、
4+4
(1+3)+4
の二種類があります。
で、
伊勢神宮の神職は古代の神拝所作を伝えていらっしゃるようです。
昇殿参拝をすると我々でも神職さまのその所作を(ぶしつけながら)拝見できます
一揖。
四起拝。(立拝と座拝を四度。都合、八拝)
八開手。
短手一拍
(都合、9拍手)
一拝。
これを祭儀の最初と最後の両度行う。
32拍手の件、八開手を一段として四度行う。
これを天八開手と言って最高儀礼。
伊勢神宮では遷宮や特別な祭儀で奉りる由