新説 長崎のハタはチベットのラサ凧がルーツ

長崎名物に「ハタ」がある。

長崎以外では凧という。

ハタ

ハタ

詳しい説明がナガジンというホームページに書いているので抜粋させていただいた。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken1303/index.html

「ハタ揚げ」は、江戸時代から「長崎くんち」「精霊流し」とともに長崎三大行事のひとつとして親しまれている伝統行事。

凧は国字で「風にあがる巾(布きれ)」の意味。発祥地とされる中国から伝わったのは平安時代といわれ、当初は中国での表記そのままに紙の鳶(トビ)と書いて「紙鳶(シエン)、紙老鳶(シラウシ)」などと呼ばれた。狼煙(のろし)代わりや、敵陣に火を放つ道具にもなったという。その形状から江戸方面でタコ、京阪ではイカやイカノボリ、ほかにタカやタツ、テングなどと地域によって呼ばれるようになった。長崎での呼称はイカノボリが主流だったようだ。

アゴバタは、十字の骨組みがトビウオ(飛魚/長崎の方言でアゴ)の胸ビレを広げた形に似ていることからつけられたと想像できる名で、これが長崎ハタの基本形。

五島のバラモンなどの大陸系の凧=イカノボリと区別して、これら南方系のハタは「長崎ノボリ」とも呼ばれていたようだ。

長崎ハタの誕生はいつ?
現在のハタ、つまり南方系のアゴバタの伝来については、出島オランダ商館の従者として来たインドネシア人から伝わったというのが定説だ。

長崎はハタ合戦といいペーロンといい、競い合うことが好きだった街である。

日本では凧はいつからあったのかというと

「鎌倉時代までは凧の日本名は無く、中国名の紙鳶(シエン)、紙老鴟(シロウシ)と呼ばれていた」という記録があるので、凧じたいは鎌倉時代にはあったのだろう。

紙老鴟(シロウシ)
現在の中国では風箏と呼ぶことが多いが,これはたこにうなりや笛を付けたことに由来する。日本では《田氏家集》(9世紀)に紙鳶と見え,《和名抄》(10世紀)に紙老鴟(しろうし)あるいは紙鳶とあり,そのころまでに中国から伝来したものと思われる。コトバンク

「中国結び」型の凧

「中国結び」型の凧

日本の奈良時代の頃である。

本格的に中国文化を取り入れた時期である。紙鳶も大陸文化の一つだったと思われる。

その後、日本全国に広まってる。

富嶽三十六景に描かれた江戸の凧

富嶽三十六景に描かれた江戸の凧

江戸方面でタコ、京阪ではイカやイカノボリ。長崎での呼称はイカノボリが主流だったようだ、とある。

うーん

ハタは出島オランダ商館の従者から伝わった。

凧の長崎での呼称はイカノボリが主流。

この二つはどうつながるのだろうか。


長崎の五島に伝わっている凧はバラモンという。形や絵から南方系である。

バラモン凧

バラモン凧

絵柄は鬼が真正面から兜をくわえこんだ姿で敵に後姿を見せぬ勇者の姿を表現している。

平戸の「鬼洋蝶」、壱岐の「オンダコ」とよく似ている。

平戸の「鬼洋蝶」

平戸の「鬼洋蝶」

壱岐の「オンダコ」
毎年桃の節句の頃になると、鬼が天上から降りようとするので、壱岐の人々は鬼が降りてこないように、鬼凧揚げをする風習が残っている。

壱岐の「オンダコ」

壱岐の「オンダコ」

五島は倭寇という海賊の基地で、八幡船(ばはんせん)がたくさん帰港していたという。

大陸の文化のハタは、大和地方ではなく直接大陸から伝わった可能性が高い。

確かに五島のバラモンは、長崎のハタとは違う歴史を持っている。


14世紀ころから交易船によって南方系の菱形凧が長崎に持ちこまれはじめ、17世紀には出島で商館の使用人たち(インドネシア人と言われる)が凧揚げに興じたことから、南蛮船の旗の模様から長崎では凧をハタと呼び菱形凧が盛んになった。

これは、中近東やインドが発祥と言われる菱形凧が14、15世紀の大航海時代にヨーロッパに伝わり、オランダの東方交易により東南アジアから長崎に広まったものとされる。ウィキペディア

「南蛮船の旗の模様から長崎では凧をハタと呼び菱形凧が盛んになった」とある。

南方系の菱形凧で調べると、大正解のページに出くわした。

ラサ凧は2006年、西藏(チベット)凧の代表として国家無形文化遺産に登録された。チベット凧は形はみな同じで、平たいひし形をしているが、豊富な絵柄で、上空での「戦闘機能」を備えている。毎年8月から10月の間、ラサの凧愛好家たちがラサの河原に集まり、「けんか凧」イベントを開催する。

この伝統的な「けんか凧」はラサ地区で数百年の歴史を持つ。新華網が伝えた。

人民網日本語版 2015年08月14日08:17

人民網日本語版 2015年08月14日08:17

凧はチベット語で「飛ぶことができる紙の鳥」と呼ばれており、主にラサ、シガツェで流行し、チベットの人たちに深く愛されてきた。

凧をあげる人は糸を引いたり緩めたりして空中の凧を上下左右に動かしたり、回転させたり、前後左右で挑発したり、ぶつかり合ったりと微妙な変化を持たせる。糸が切れたほうが負け、また落ちた凧を拾った人はそれを所有することができる。これがまさに「けんか凧」だ。(編集JK)

西藏(チベット)凧

西藏(チベット)凧


「人民網日本語版」2015年8月14日
http://j.people.com.cn/n/2015/0814/c206603-8935773.html

このホームページにある「ラサ凧」で確定だろう。

「けんか凧」の伝統といい、落ちた凧を拾った人はそれを所有することができるシステムも長崎そのままである。

長崎のハタの模様を見れば、南蛮船の旗は容易に想像がつく。

しかしそれだけだろうか。

凧ではない「ハタ」の語源は?
そして、語源の方にもオランダ船旗や船舶信号旗の「旗」が由来というものと、インドネシアで凧の意の言葉「パタン」からという2説がある。インド・パキスタン・インドネシアなどでは凧を「パタン」と言い、同じようにガラス粉を塗りつけた糸で勝負をする風習があるという。

これで決まりかなと思ったが、今はインターネットの時代。

いろんな外国の言葉も簡単に調べられる。

インドネシアで凧の意の言葉といわれる「パタン」という言葉から調べてみた。


しかし、調べてみたらインドネシアでは凧のことををLAYANG-LAYANGというとある。

MELAYANG-LAYANG すいすい飛ぶ BERLAYANG 凧揚げをする


違う。現在調べるとインドネシアで凧の意の言葉「パタン」とはいわない。

しかし、古くから盛んであり、インドネシアでは、木の葉の凧の尾にエサをつけて、海の中を引っ張りながら魚を釣りをしていたという。

よくある伝承の思い違いかも知れない。

インド・パキスタン・インドネシアなどでは凧を「パタン」と言い、同じようにガラス粉を塗りつけた糸で勝負をする風習があるという。


この話は、いろんな所に掲載されているが、真実かどうか調べた人がいるのだろうか。

昔だからそうなのかなと、真偽を確かめずコピペの結果ではないのか。

このコピペはインターネットの一番ダメな部分でもある。


再度調べてみると「パタン」というのは、インド北西部アーメダバードの北西150kmにある街の事とあった。

パタンはアーメダバードの北西150kmにある街

パタンはアーメダバードの北西150kmにある街

凧のことではない。街の名前だった。

凧はヒンディー・ウルドゥー語でパタング(バッタの意味もあり) 。パタンガーは蛾を意味し、名前の由来である可能性ありとある。

インドでは現代も名物になるくらい凧あげは盛んだという。喧嘩凧をして遊ぶともある。

インドの凧

インドの凧

インターナショナル・カイト・フェスティバル

インターナショナル・カイト・フェスティバル

長崎のハタ上げ熱と通じるところもおおい。


パキスタンではどうかというと「バサント」と呼ばれる凧揚げ祭りに関する記事があった。

バサント

バサント

パキスタンでお祭りに参加した者1400人が逮捕された。この祭りとはこの地域独特のバサントと呼ばれる凧揚げ祭りで、そのタコの強さを争う喧嘩祭り的な要素がある。近年このタコの強化による死者が相次いでおり、当局はこの取締りの強化を行っている。

春の風物詩 バサント祭りが開催される - パキスタン

春の風物詩 バサント祭りが開催される – パキスタン

凧はポルトガル人によって伝えられたものであり、この歴史は、インドネシアや日本の凧のそれと一致する。


“インド・パキスタン・インドネシアなどでは凧を「パタン」と言い”という、

いかにも古代の正確な伝承に書かれている内容なしきものが、あっけなく崩れ去っていった。

パキスタンの凧揚げ祭り「バサント」

インドの「パタン」という街

西藏(チベット)のラサ凧の「けんか凧」

いろんな情報が混じって、

「インド・パキスタン・インドネシアなどでは凧をパタンと言い」という伝承につながったと推測される。

長崎名勝図絵中の「出島はたあげの図」のとおり「出島オランダ商館の従者として来たインドネシア人」らしき人がハタ合戦をしている。

絵を見ると「ハタ合戦」である。

長崎・出島のハタあげ

長崎・出島のハタあげ

たしかにインドネシアでは今でも凧揚げは盛んのようだが、内容は南方系の凧揚げのようである。

凧揚げの楽しみ方って? バリ島での暮らし
男の子に人気なのは、凧揚げですね。
24時間「ブーン」という音がするんですよ。24時間、昼も夜も、絶えず聞こえるんですよ。「ねえ、凧って夜も飛ばしっぱなしで固定しておくの?」
と訊くと、「そう」とのこと。
「あの“ブーン”って音を楽しみたいんだよ。」
http://ameblo.jp/tidur-tiduran/entry-11333967357.html

インドも凧揚げは盛んなようだが、「ハタ合戦」の記事は見当らない。

印度メーション -神秘の国インド情報サイト
http://hyu-bridge.seesaa.net/article/384188405.html
インドでは凧上げはとてもポピュラーです。でも、正月に揚げるわけではないですけどね。
インドには、毎年1/14頃に、「マカラ・サンクラーンティ(Makar Sankranti)」や「ウッタラヤン(Uttarayana)」と呼ばれる「凧揚げ祭り(カイト・フェスティバル)」が行われます。
特に、グジャラート州では盛んに行われます。
この日は、インドでは子どもだけでなく、大人も一緒に凧を1日中揚げます。
凧は、紙と竹でできたひし形シンプルなものが多く、道端から、自分の家の屋上から、ところかまわずたくさんの凧が挙げられます。
カラフルな凧がいっぱい上がっているし、見ていても楽しそうですからねわーい(嬉しい顔)

そうすると「ハタ合戦」は西藏(チベット)のラサ凧の「けんか凧」の可能性が一番高い。

出島オランダ商館の従者として来たのはインドネシア人かも知れないが、「ハタ合戦」をしているのはチベット人だったのではないか。


チベットは、チベットを手に入れたいイギリスとの問題がおおかった。

ダライラマ13世の時代・・・
13世は鎖国政策をとるが、インドを植民地支配したイギリスがチベットに侵攻、1903年、ギャンツェにおいて、チベット軍はイギリス軍に敗北、ダライラマ13世はモンゴルへ亡命する。チベット政府はイギリス政府とポタラ宮でラサ条約を結び、チベットに対するイギリスの保護権が確立された。その条約には清の権益は記されていなかったため、1906年、清はイギリスと英清西蔵条約を締結、宗主権の回復をはかる。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ryunosuke/9947/travels/tibet/abouttibet.html

これはチベットの歴史の一部だが、オランダとイギリスは協調関係にあり、チベットの人が出島で働いていた可能性はゼロではない。

チベットのラサ凧は長崎と同じ菱形で、中央に絵が描かれているようだが、出島オランダ商館の従者であれば、オランダの旗を作り直して「ハタ」上げを遊んでいたと思われる。

長崎人が、菱形のオランダの旗をつかったラサ凧の「けんか凧」で遊ぶのを見て、真似して遊んだのではないだろうか。

まさに「たこ」ではなく「旗」が空に浮かんでいたのだ。

オランダの国旗

オランダの国旗

長崎のハタ

長崎のハタ


これが長崎の「ハタ」の始まりである。

チベットの「けんか凧」のルールも長崎人にはしっくりいったに違いない。

ハタという言葉は日本では様々な意味を持つ。

古代から秦氏という大陸系帰化人は日本の文化に大きく影響している。

秦氏の住まいは京都の太秦(ウズマサ)であり、秦は「はた」である。

コリア語のパタ(pata)は「海」、ハタ(hata)は「多い」の意である。

日本にたくさんある八幡神社は秦氏からスタートしており、博多、八幡などは秦氏に由来している。

日本語の旗という語源も、秦氏や八幡からきているという。

長崎市に中華風庭園がある湊(みなと)公園がある。

長崎新地中華街の入口にあり、ランタンフェスティバルのメイン会場になっている。

湊(みなと)公園

湊(みなと)公園

湊(みなと)公園の「湊」は秦の始皇帝の「秦」の事であろう。

湊:(水上の)人やものの集まるところ。
港:船着き場。(「港」は比較的新しい字でもともとは「分かれ流れる川」という意味で、そこが船着き場となり、その意味を借りて「湊」を示すようになった)

上記の意味も踏まえ「ハタ」という名前が定着したのだと推測される。


今回、チベットという国名が出てきたが、チベットと日本は不思議な運命でつながれている。

日本人は、Y遺伝子D系統を多く持つ人種である。その遺伝子は日本人以外ではチベット人がもっているという研究の結果が出ている。

これは日本人もチベット族もルーツはモンゴル東部のブリアート族をルーツとし、今から5000年ほど前に地球規模で寒冷化したときに南下してきたのだと考えられ、南東に移動したのが日本人、南西に移動したのがチベット族の先祖ということです。

チベットの風俗や考え方は、不思議なほどよく似ている。

今回の「けんか凧」は、そのいい例だろう。


長崎に、チベットの「けんか凧」があった。

これが「ハタ」の結論である。

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コメント

  1. 上野俊一 より:

    長崎出身、福岡在住ですが、ケンカ凧のルーツの興味深い話をありがとうございます。
    それも一つの仮説ですが、ただ「オランダとイギリスは協調関係にあり」というのは、19世紀前半の状況としては疑問です。イギリスはフェートン号事件に象徴されるように、東インド会社の権益を狙ってむしろ対立していたと思います。
    ケンカ凧のルーツは別として、アゴバタのデザイン・構造についてはやはりインドネシアの遺伝子が強いように思います。
    すでに閉鎖されたブログですが、写真だけみるとビックリ、まさに長崎のハタです。
    http://blog.livedoor.jp/putih1014/archives/24875963.html

  2. artworks より:

    コメント有り難うございます。
    リンク先の写真は、まさに長崎の「はた」ですね。インドは長崎文化の重要な地点ですね。
    もう少し調べてみると新しい発見があるかもしれません。有り難うございます。