新羅、百済は倭人主導の国家だった! 生き残りをかけた丹波国の策略

朝鮮半島の新羅という国の第4代国王脱解尼師今(だっかい にしきん)は倭人だったという話しがある。

事実である。

『三国史記』という三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の歴史書がある。

朝鮮半島に現存する最古の歴史書という。

この『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀は、誕生及び即位については以下のように記している。

新羅

新羅

昔氏 初代の昔脱解(第4代脱解尼師今)

倭国の東北一千里のところにある多婆那国(現在の兵庫北部等の本州日本海側と比定される)の王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。

やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。

箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした。

長じて第2代南解次次雄の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた。ウィキペディア

ずいぶん不思議な話である。

簡略化すると

倭国の多婆那国の王妃が大きな卵を産み、箱に入れて海に流した

辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。

名前を「昔」を姓とし「脱解」を名とした。

第2代南解次次雄の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた。

となる。

百済、新羅、高麗の流れで日本とは関係が深い。

百済には任那日本府があり、大和王権の地があったことは、現在間違いなかったとされている。

その百済を滅ぼしたのが新羅である。

新羅は7世紀中ごろに朝鮮半島をほぼ統一し、高麗、朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。

3姓の王系

新羅には3姓の王系があり、朴氏・昔氏・金氏とある。

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日本でいうと徳川御三家みたいなものである。

最初の王 朴氏について
辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面に比定される)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があった。卵を割ると中から幼児が出てきて育て上げたが、10歳を越える頃には人となりが優れていたことから六村の人たちは彼を王位につけた。卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。
建国時に腰に瓠をぶら下げて海を渡って来たことから瓠公と称されるようになった倭人が、大輔という役職名の重臣になった。

朴氏も卵から生れたとある。

朴氏と瓠公という倭人は同じか、同族とする説もある。

朴氏の次男は「アメノヒボコ」といい日本に住んだとある。

アメノヒボコは、記紀等に伝わる古代朝鮮からの渡来人または渡来神。
『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)」のほか「天日槍命」・「天日桙命」・「海檜槍(あまのひぼこ)」とも表記される。

『日本神話』・『古事記』等では新羅王子、『播磨国風土記』では神と位置づけて記述される。

金氏始祖の金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)
脱解尼師今の治世時に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞き、夜明けになって瓠公に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。その木の下で白い鶏が鳴いていた。小箱を持ち帰って開くと中から小さな男の子が現れ、容姿が優れていたので脱解尼師今は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。また、このことに合わせて始林の地を鶏林と改名した。

金氏は第4代脱解尼師今(倭人)が見つけてきたとある。

これは新羅の王族が、倭国と深く絡んでいることの証である。

 

昔氏の始祖脱解の出生については倭国東北1千里(当時の1里はおよそ500m)という。

日本の但馬、丹波、肥後のいずれかの地域とされるが、但馬(兵庫県北部)と推定する向きが多く、天之日矛が祭られる豊岡と一致する。

但馬は7世紀、丹波国より8郡を分割して成立した。(確証なし)。

 

http://sakezo.web.fc2.com/nara3.html
丹波(たんば)の始まり

丹波(たんば)の始まり

丹波(たんば)の始まり

 

古代丹国は、福井県・滋賀県のいずれかに王都があったと推定されます。具体的に利便性や気比神宮から敦賀近辺と比定するとします。

7世紀に丹波国が定められたときの領域は、初期の中心地は、現在の元伊勢籠神社(宮津市大垣)の付近を地盤として、国分寺が置かれていました。

引用が長く申し訳がないが、正確を期するために引用した。

要約すると昔氏は丹波国から、朝鮮半島に渡り、新羅を立ち上げたともとれる。

とすれば丹波国の元伊勢籠神社に昔氏の由来があるかも知れない。

元伊勢籠神社
「元伊勢」とは、伊勢神社に天照大神が祭られるまで、他の地域の二十数カ所の宮で祭られていた。その神社を元伊勢という。

元伊勢籠神社

元伊勢籠神社

籠(このじんじゃ)神社の主祭神は彦火明命 (ひこほあかりのみこと)。

祭神については古くより諸説があり、『丹後国式社證実考』では伊弉諾尊、『神社明細帳』では天水分神としている。

祭神が籠に乗って雪の中に現れたという伝承に基づいて社名を「籠宮(このみや)」と改め、彦火火出見尊を祀ったという。

延喜式には「篭神社(籠神社) 名神大 月次新嘗」とあるので、「かごのみや」と呼んでいたのが「この」だけになり籠神社(このじんじゃ)となったと思われる。

中世の籠神社境内の様子は雪舟の「天橋立図」(国宝)に描かれていて、天橋立が参道だった。

国宝「天橋立」雪舟

国宝「天橋立」雪舟

天橋立には天女伝説がある。

元伊勢籠神社の奥宮は「真名井神社」という。真名井とは水に付けられる最高の敬称である。

「真名井神社」の横には、「倭宿禰(やまとのすくね)」が亀に乗っている像がある。

本殿の屋根, 倭宿禰命の像

本殿の屋根, 倭宿禰命の像

まるで浦島太郎である。ちなみに丹後国風土記には浦島伝説がある。

倭宿禰(やまとのすくね)は倭国を統治した最初の人物とされている。

以上のことを併せれば、古代丹国は大和と同じような国だったと推測される。

 

アメノヒボコが日本に戻った意味

その丹波国から朝鮮半島に渡ったのが昔氏であり新羅の国王になった。

そして、日本に戻ったのがその子孫「アメノヒボコ」である。

海峡を越えた神々—アメノヒボコとヒメコソの神を追って

海峡を越えた神々—アメノヒボコとヒメコソの神を追って

『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において新羅王子の天日槍が渡来したと記されている。

4世紀から5世紀にかけての新羅と百済は、高句麗と倭国に比べて、国力も領土も弱小であった。

新羅の建国時期は356年とされる。

百済(くだら)は、346年から660年といわれている。

 

日本は空白の4世紀と呼ばれている時代である。

倭国から新羅(朝鮮半島)への大規模な軍事侵攻があったこと、また新羅が倭国に服属していた時代もあったことは朝鮮や中国の資料からも現在確認できる。

その時代倭国には複数の国があった。九州の大和、出雲、吉備などであり、古代丹国もその一つだったのだ。

その後、大和が日本を統一する大きな勢力になっていく。

当然、日本国内は対大和で乱れていった。倭国大乱(わこくたいらん)である。

倭国大乱の時期は2世紀後半といわれているが、大和が出来上がるまで諍いは続いていたと思われる。

その時大和以外の国はどうしただろうか。

当然、戦いをするが旗色が悪くなると、日本外に進出しようとしたのではないか。

大和と同じ地域の九州勢は朝鮮半島の百済へ、古代丹国は新羅へと活路を求めて海を渡ったのだ。

それが昔氏である。

新羅をある程度安定させた昔氏は、次男(一族)を日本にやった。

丹波国の策略

昔氏が新羅という国をバックに、大和朝廷と交渉したのではないかと思われる。

つまり、丹国を復興させる交渉をしたのだ。

大和は、出雲と同じように丹国を好条件で、大和朝廷へ受け入れたのだろう。

その証拠が元伊勢籠神社である。

丹波国には出雲大神宮がある。島根県の出雲大社に祀られる大国主命が最初に鎮座したのがこの宮であり、奈良時代の和銅年間(708年~714年)に出雲国へ遷座したという。

そしてこの宮を元出雲とよび、神宮という名称をつけ出雲大神宮と呼んでいる。

出雲と丹波は同盟関係にあったのかも知れないし、元出雲という言い方からすれば古代丹波国は出雲も含んでいたのかも知れない。

大和朝廷が、出雲、丹波地域を大和一色にしなかったのは、丹波国のバックには新羅がいたからだと推測できる。

 

また、日本に大量の帰化人がやってきて、大和建国の勢力となった理由は丹波国の新羅の力が大きく働いたからである。

新羅の入寇(しらぎのにゅうこう)というのがある。

大化の新羅の賊

大化の新羅の賊

新羅王の勅命による国家規模の海賊行為等の総称である。

新羅の国内の混乱により、811年から新羅が滅亡する935年までの間に、度々、新羅の賊が日本各地を侵した。

天智天皇7年(668年)、新羅の僧沙門道行が草薙剣を盗みて新羅に逃げ向く。而して中路にて雨風荒れ、迷いて帰るという草薙剣盗難事件が発生している。

668年以降、日本は遣新羅使を派遣している。天武天皇の即位から780年まで、日羅関係の情勢に応じながらも遣日本使が30回以上送られている。

672年の壬申の乱で勝利した大海人皇子(後の天武天皇。在位は673年から686年)は、親新羅政策を採った。

持統天皇元年(687年)、日本の朝廷は帰化した新羅人14人を下野国に、新羅の僧侶及び百姓の男女22人を武蔵国に土地と食料を給付し、生活が出来るようにする。帰化人の総数には日本から新羅に帰化していた倭人も含まれる。

これらすべて、倭人の新羅王と丹波国の同盟による、大和朝廷との駆け引きだと思われる。

大和朝廷の独裁政治をいさめる意味でもあろう。

朝鮮半島は、倭人たち主導で国が成り立っていたのだ。

そして大和との駆け引きで、古代王国の末裔たちは大和を乗っ取ったのかも知れない。

元伊勢と呼ばれている神社の所在地は、倭国の大国ばかりである。

丹波国(但波国)の元伊勢 真名井神社(籠神社摂社)皇大神社 笶原神社 竹野神社

木乃国(紀伊国)の元伊勢 濱宮

吉備国 伊勢神社 穴門山神社 神明神社 伊勢部柿本神社 国主神社

それ以外にも、伊賀国 近江国(淡海国) 美濃国 尾張国 伊勢国

これらは、大和朝廷の連合国の証として、大和の祖先神、天照大神を祭らせたと思われる。

大和とは、名前の通り大きな和の総称なのだ。

新羅、百済は倭人主導の国家だった! 生き残りをかけた丹波国の策略” に対して3件のコメントがあります。

  1. Zombie より:

    主導というより新羅は倭人系の国家ですよ。

    『三国史記』によると新羅の祖の赫居世居西干は異国人
    『新撰姓氏録』によると神武天皇の兄である稻飯命が新羅の祖(朴氏の始祖で初代王の赫居世居西干)
    『三国史記』によると新羅の建国時に諸王に仕えた重臣である瓠公は倭人
    『三国遺事』によると「朴」は辰韓の語で瓠を意味する(朴氏の始祖である赫居世居西干と瓠公は同族とする説がある)
    『古事記』『日本書紀』によると赫居世居西干の次男アメノヒボコが日本の但馬国に移住
    『三国史記』によると昔氏の始祖で第4代王の脱解尼師今は倭人(多婆那国の出身。多婆那国の場所は日本の但馬あたり)
    『三国史記』によると新羅三王家の一つ金氏の始祖である金閼智を発掘したのは瓠公(おそらく金氏も倭人)

  2. artworks より:

    コメント有難うございます。朝鮮半島の歴史は興味のあるところです。嫌韓という事でなく正しい歴史を知るのが大切だと思います。

  3. 古代進 より:

    こんにちは。面白く拝見しましたが、任那日本府は、百済にあったのではなく、任那にあったのですよ。地図に任那がありませんが韓国製の地図ですか?

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