長崎の住吉神社について 探偵的見解
長崎の住吉神社は特別不思議な神社ではない。
原爆で倒壊して、昭和二十七年より二回に亘って御造営したとあり神社自体は古い物ではない。
「住吉神社」という名前もその時つけられたものかも知れない。
住吉神について
長崎くんちで有名なお諏訪さんは諏訪神社・森崎神社・住吉神社の三社を祭っている。
この三神の由来について、霊的な意味合いは極端に薄く、キリシタンに対抗して国が神社を作ったという事だけだということだ。
1625年(寛永2年)- 長崎奉行や代官らの保護・援助を受け、青木賢清が西山郷円山(現 松ノ森神社)に社殿を建立し、諏訪・森崎・住吉の三神を合祀とある。
その際の「住吉」のご神体に特別な意味はないであろう。
住吉とは
底筒男命(そこつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称である。住吉大神ともいうが、この場合は住吉大社にともに祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある。
海の神、航海の神、また和歌の神とされる。
住吉三神はオリオン座の三ツ星という説もあるが、対馬の豆酘(つつ)の天道法師伝説からきていると私は思う。(この件に関しては別の文章で述べたい)
長崎の住吉神社は、時津街道を神功皇后が利用したという伝説に対応して、住吉大神を祀ったと思われる。
しかし、江戸時代、時津街道の宿場名にも「住吉」の地名はなく、住吉という地名はかなり後からつけられたと推理する。
時津街道は、今の大きな電車道ではなく、現在の住吉神社の前を通っていて、大村領浦上北村という名称がある。
伊能忠敬測量による長崎県内の主な街道・時津街道
家ノ川(現在の浦上川の中流域の名)巾二十三間(42m)。
字家ノ郷(長崎市家野町)。
左は西で川添川向にある。
直ぐに大村領浦上村西(現在は西町)。
字井ノ上。字中原。字城ノ越。大村領浦上北村で街道を打ち止め三十二町四十五間(3,573m)。
街道総測一里四町三十五間二尺五寸(4,428m)。
大村領で野陣で小休止する。
彼杵郡大村領浦上北村。昨日打ち止めより時津街道を測る。
浦上北村本村。
人家が散在していて字はない。
只、西又は東という。
右に口留番所。字東。字西。字中通(住吉商店街)。
口留番所(くちどめばんしょ)とは、各藩が自藩の境界や交通の要所などに設置した番所のことをいうので、長崎と大村藩の境界線が、現在の住吉界隈だと思われる。
このあたりは、集落もなかったらしい。
そんなところに神社があるのは不自然である。
ただ、藩境だとしたらお地蔵さんなり祠があったかも知れない。
住吉神社の北側は小山のようで今も林になっている。
昔より、辻境は身寄りのない人を葬ったりしているので、無縁仏のための供養があったのかも知れない。
しかし、墓地は神社ではなく寺社のテリトリーだ。
改めて地図をよく見ると、浦上川沿いに寺がない。
清水町に照円寺というのがあるだけである。
無音山照圓寺(照円寺)は、近世期の正保年間(1648-1648年)に創建された浄土真宗の寺院だ。
住吉神社の後にたてられている。
浦上地域にはほとんど寺がない。
やはり、キリスト教の焼き討ちで消滅したのだろう。
住吉神社がたてられたのは寛永十一年(1634年)である。
家野町などキリシタンが沢山いた地域である。
これは私の推理だが、キリシタン対策にこの辻堺に神社を建てたと思われる。
ある意味番所代わりになっていたのだろう。
理由は、この地域にキリシタンが多くいたからだと推測される。
つまり、キリスト教禁教という政治のためだけに作られた可能性が高い。
住吉祐徳稲荷
住吉神社の境内には、赤い鳥居の稲荷神社がある。
祐徳稲荷神社と書いている。
九州のお稲荷さんはほとんど祐徳稲荷神社だ。
特別な意味はないと思われる。
摂社という奴だ。
住吉神社だけではなく稲荷神社のご利益もプラスされるわけである。
この稲荷神社の参道には、恵比寿様が祀られている。
この神社の真向かいの道にも(中園町のアーケード)、恵比寿様が祀られている。
恵比寿様は商売繁盛のご利益がある。
住吉神社が出来た後、商業地として発展していくので、商売繁盛の祈願として後から作られたのかも知れない。
神社の作りを見ると、しっかりと作られている。
屋根の千木を見てみると、外削ぎである。
ということは、男性の神様ということになり、住吉神が祀られていることは間違いない。
住吉神社は近所のありふれた神社なのだが、その作られた動機と時期を知れば、その地域のことがある程度わかる。
ただ一つ不明なことがある。
稲荷神社の参道にある恵比寿様だ。
恵比寿様の横に、へんな像がある。
何だろう。
手作りのようだが、稚拙な像である。
顔はゴジラっぽい・・。
この問題は調査中である。