五島福江藩。女子奴隷制度の悲劇

五島高浜ビーチ  アートワークス

私の父の故郷は五島列島の宇久島である。

とても綺麗な海が自慢で、高校生になるまで夏休みに長崎から親戚の家に遊びに行っていた。

宇久島には平家伝説があり、ある程度知っていたつもりだったのだが、誠に恥ずかしながら「三年奉公制」の事は最近知る。

いろんな事を考えさせられた内容である。

そこで、自分なりにまとめてみた。

ほとんどウィキペディアの抜粋だが、江戸時代の後期の五島藩の事を知ることになった。

三年奉公制

ほとんどの解説で「江戸時代福江藩の藩主の悪政により」と決まり文句で書かれている。

これほどはっきり「悪政」と書かれている藩を私は知らない。

内容は15才から3年間女性は「三年奉公制」という制度で、福江の武家へ3年間無給で奉公させられていたという事だ。

今でいえば、中学3年生から高校3年生の女性を奴隷同然の扱いで武家へ奉公という形で働かせていたという。

はじめたのは宝暦11年(1761年)第7代藩主・五島盛道である。。

内容を個条書きにしてみた。

領民の長女は除く。

奉公中に不調法があれば、一生結婚することを許されない。

3年の奉公の後でも、離婚すると再度、3年間奉公に出された。

米5石または銀300匁を藩に差し出せば免除。

天保六年(1835)になると百姓のみに限られる。

制度は幕末まで続いた。

全くのただ働きで昼間は下働きや野良仕事に追い廻され、夜は深夜まで臼で籾(もみ)を搗(つ)かされ、娘たちにとって大変つらい勤めで「家中の三年奉公を勤めたならば、二度と御家中の地は踏まん」と言われたほど苛酷な労働であった。

公の文章には、過酷な労働のことしか書いていないが、性的暴行は当然あったと思われる。

更に驚くことは、宝暦十一年から約百年間にわたってこの制度が続いていたことだ。

 

なぜ、奴隷制度とも言えるこのような悪政が始められたのか、と書かれている。

藩の財政のひっ迫から起こったと推測されるが、「貧すれば鈍する」の典型だろう。

当時の藩財政はひん迫の極に達しており、領主自身も節検に勤め、また家中、土民にも倹約令を出して藩財政の確立を図っているが、それでもなお、このような悪制度を強制せねばならない藩の貧困にあった、と言わねばならないだろう。

更に島民にしてみれば、赤貧の暮らしの中で、「三年奉公制」は口減らしだったのかも知れない。

しかし、貧しいからといって、超えてはいけない人の道を踏み外した罪は大きい。

そして、100年もの間この制度を続けた歴代の藩主もまた同罪である。

歴史

第6代藩主 五島 盛佳(ごとう もりよし)

人事の一新、家臣救済のために借金返済の凍結。

元禄11年(1698年)には新田開発を行い、新田からは3年間の年貢免除を行うなど改革を進めたが、1701年には凶作となり、1702年には捕鯨業も不振であり、次第に財政難が表面化してゆく。

宝永7年(1710年)には材木の輸出を行い、商人に対して財政援助の融資を求めるなどしたが、ほとんど効果はなかった。

享保6年(1721年)には領内の労働人口を把握して確保するため、「人付け改め」と呼ばれる徹底した人身把握政策を開始し、各世帯の家族数・年齢・世帯主との続柄・出自・身分を細かく人付帳に記載した。

この徹底した「人付け改め」こそ、奴隷制度の始まりである。なぜこの制度を思いついたのかまったく不明である。

第7代藩主 五島盛道 

福江藩史上最悪の悪法「三年奉公制」を開始

藩財政悪化により財政再建を中心とした藩政改革に着手するが、この頃になると領民の生活も困窮して財政悪化は深刻化。

延享4年(1747年)には参勤交代のための資金調達さえままならなかった。

宝暦2年(1752年)には遂に家臣団より上知策をとって知行を削減し、さらに幕府から2000両を借り受ける。

しかし、やがてその借金返済のため、百姓から「高役銀」と呼ばれる税を強制的に徴収。

生活に困窮した領民は子供を質奉公に出す状況にまで陥ったといわれる。

宝暦11年(1761年)福江藩史上最悪の悪法「三年奉公制」が開始。

一連の悪政から商人の信用を失い、以後は商人の援助なくしては藩政も立ち行かなくなり、次第に商人が藩政に介入することになる。

倹約を主にした緊縮財政政策も失敗に終わった。

第8代藩主 五島盛運

家督を継いだ年には大虫害で7588石の被害を受けた。

安永2年(1772年)に農村復興策として大村藩からの移住を奨励・公認する政策をとった。

大村藩では多数のキリシタンが弾圧されていたため、その彼らが五島藩に逃れて移住し、「居者百姓」と称された。しかし予想以上に隠れキリシタンが移住したため、幕府から追及されることを恐れて弾圧にも乗り出した。

この移住政策で農村が復興したのも事実で、藩財政も一時的ながら好転したため、盛運も弾圧の手をゆるめてキリシタンの移住も黙認することにした。

このため盛運は、キリシタンからは「福の神」とまで称されることとなる。

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しかし、寛政期に入ると藩財政が再び悪化したため、山田茂右衛門を蔵元寄合席に登用して藩政改革を進めたが、その矢先の寛政9年(1797年)8月に福江藩史上初となる百姓一揆が起こり、藩ではこの教訓として義倉を設置し、領民の救済を優先することとなった。

この時点で「三年奉公制」は取りやめてもいいはずである。やめなかったのは藩主の決断がなかったのだ。
役人にはよくあるが、一度手にした既得権(若い女性を自由に出来るという色と欲)は逃したくなかっただけであろう。

第9代藩主 五島 盛繁(ごとう もりしげ)

財政難の福江藩は領内の商人から多額の献銀を求める代わりに武士の身分を売買するという方法をとって資金集めを行ない「金あげ侍」という武士が生まれるようになった。

商人が藩政に完全に介入するようになり、序位昇進制を採用している。

文政4年(1821年)藩校である育英館が創設された。

財政難は解消されず、文政8年(1825年)にも三尾野で百姓一揆が起こる。

第10代藩主 五島 盛成(ごとう もりあきら)

弘化3年(1846年)から家臣の禄高改正など、人事改革を推し進めた。

幕府より国防強化のために石田城築城の許可を受けて、文久3年(1863年)に完成した。

安政5年(1858年)1月21日、三男・盛徳に家督を譲って隠居し、二の丸に隠殿を造立し、心字ヶ池を中心とする林泉式庭園を併設した。現在、この石田城五島氏庭園は、国指定名勝となっている。

第11代(最後の)藩主 五島 盛徳(ごとう もりのり)

生来から病弱で、実権はなおも隠居した父に握られていた。

文久3年(1863年)に父の時代から始まっていた石田城築城が完成している。

新政府より海防強化のために分知していた富江領3000石の併合を許されたが、富江の領民による反対一揆が起きて併合に時間がかかり、明治2年(1869年)7月になってようやく合併を果たしている。

明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で藩知事を免職された。

わが国で最も新しい城 石田城

わが国で最も新しい城 石田城

「三年奉公制」がいつ終わったかの記述がない。

幕末までと書いているので第11代(最後の)藩主 五島 盛徳(ごとう もりのり)まで続けていたのだろう。

奉公した女性は、悲惨な出来事を口外したくないだろう。

声だかに叫んだとしても、若い女性である。自分の不利になるだけだったのだろう。

この事も腹が立つ。

武士という人種は好きだけど、武士という階級にへばりついている奴は嫌いだ。

五島福江藩。女子奴隷制度の悲劇” に対して2件のコメントがあります。

  1. ターボ より:

    はじめまして
    三年奉公は、家臣の俸禄を半地借り上げ
    とかしたため、本来の家禄では養えた
    武家奉公人を半地借り上げでは養えなくなり、家臣達から不満が上がったのでしょう。
    その不満解消に女中として各家臣達に
    与えたと考えられます。
    元々火山灰の上に積もった痩せた土地で新田開発にしても島だけに限りが有り
    丁度稲刈りの時期に台風も直撃したりで
    米より魚や鯨で収入を補ってた。
    江戸迄の参勤交代も西幕の果てからでは
    大変だったと思いますし。
    抜け荷とかもしてたし、外国商船と鯨漁で漁場幕府に隠れて売ったりもしてましたからね。
    確かデルテン商会と本に書かれてました。

  2. artworks より:

    コメントありがとうございます。五島の歴史は驚きますね。教えて頂いた情報は今後の糧にさせていただきます。

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