注連縄と蛇 

注連縄

注連縄

注連縄(しめなわ)というものがある。神道には欠かせない「道具」である。

注連縄は、神と人との二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印にもなる。

伊勢神宮の結界としての注連縄

伊勢神宮の結界としての注連縄

いつから注連縄は結界となったのはいつだろうか。

日本神話によると、天照大神が天岩戸から出た際、二度と天岩戸に入れないよう太玉(フトダマ)命が注連縄(「尻久米縄」しりくめなわ)で戸を塞いだのが起源とされる。

「尻久米縄」(しりくめなわ)とは、わらの縄を引き渡して、入ることを禁じる印としたものである。

という事は、最初しめ縄とは単純に立ち入り禁止の縄だと言える。

ところが、この注連縄にもう一つの力が付け加えられていく。

それは、結界という神々の領域の力である。さらに神の領域を示す「しるし」となる。

 

しかしそれには条件がある。

ただの縄から、神の力となっていくには、雷形の紙垂(しで)が必要となってくる。

縄と紙垂(しで)の組み合わせで、しめ縄となっていったのだ。

 

しめ縄は稲作信仰と深いつながりがあるという。

なぜなら、しめ縄はわらで編むからである。

だが、その材料は稲以外にも、麻などの藁や、葛の茎を煮て抽出した繊維なども使われる。

さらに神道で本式に使われているのは精麻という大麻の茎から取れた皮から表皮を取り除き、靱皮部分を取り出したものだ。

神社で神主さんがお祓いに使う祓串(はらえぐし)という道具に巻きつけられているのも精麻だし、精麻で作られたしめ縄には、邪気を払う力があるという。

麻を使うのが正式なら、稲作信仰は関係なさそうである。

 

また注連縄の由来が蛇だという話しはよくあるのだが、なぜ蛇が結界になるのか。

なぜ蛇に雷の印である「しで」をつけるのか。

 

今回はそれらの謎を探求してみたい。

注連縄

注連縄はただの縄である。

正確に言えば縄に垂(しで)を下げた紐である。

これがどうしてそれほどの力を持つ「道具」になったのだろうか。

紙垂(しで)とは、注連縄や玉串、祓串、御幣などにつけて垂らす、特殊な断ち方をして折った紙である。単に垂とも表記し、四手とも書く。

伊勢神宮

伊勢神宮

紙垂(しで)は、見た目通りZ形である。

なぜZ形なのかというと二つの説がある。

一つは「無限大の神威」という事で、白い紙を交互に切り割くことによって、無限大を表わすという。紙垂(しで)とは無限大の神威を一片の紙に象徴するものである。

もう一つは雷説である。

「注連縄の本体は雲を、〆の子(細く垂れ下がっている藁)は雨を、紙垂は雷(稲妻)を表わしている」と宮沢賢治が花巻農学校で教えたとある。

一般的に言えば、あのZ形は雷だと誰でも思う。

「かみなり」は「神」が「鳴る」から雷であるとされているからだ。

しかし、垂の起源とされているのは、やはり古事記の天の岩戸伝承にある。

岩戸の前で賢木(さかき)の枝に下げた「白丹寸手(しらにきて)」「青丹寸手(あをにきて)」がその初出と言われている。

白丹寸手(しらにきて)の丹寸手(にきて)は、幣帛(へいはく・神に奉献するお供え以外のもの総称)で、白は木綿、青は麻とされている。

木綿や麻ならば、現在使われている、あの雷形のZではなかったのだ。

 

少し混乱してくる。

紙垂が雷形になったのは、後付ということになる。

そうすれば、神社のしめ縄の意味合いも、大きく変わってくる。

現在のしめ縄には、紙垂と〆の子(細く垂れ下がっている藁)が必需品で、あれがないと神々しくない。

そしてしめ縄とは、雲と雨と雷は、豊作のための不可欠な要素であり、注連縄は元来、豊作を願って神社に奉納されたとされている。

ここは重要である。

豊作を祈願して奉納された飾りがしめ縄で、結界という意味はないという事になる。

どうも「しめ縄」には、複合的な意味合いがありそうである。

アジアの中のしめ縄

しめ縄とPCで書けば、注連縄と変換される。つまり当て字なのだ。

この注連(ちゆうれん)は中国の漢字から来ている。

注連縄の「注連」は、中国の注連(ちゆうれん)の文字をあてたもので、中国には死んだ人の出棺後、家の入り口に清めの水を注いだ縄を連ねて張り再び死者の霊魂が入らないようにするという風習があった。

つまり、悪霊よけである。

中国の道教には悪霊や妖怪がたくさん存在する。中国の注連(ちゆうれん)はそれらを防ぐ呪いの一つだと推測できる。

中国道教は日本にもいろんな影響を与えていて、平安時代の安倍晴明で有名な陰陽道、万物は火・水・木・金・土の5種類の元素からなるという五行思想、修験道、最近はやっている風水、日本に定着した庚申信仰などは道教の影響である。

その道教の影響とも思えるものが、日本にもある。

それを勧請縄(かんじんなわ)という。

勧請縄は、村に悪霊・疫病が入るのを防ぐ、という目的で、村の出入り口の街道に吊るす縄のことである。

滋賀県 石部神社の勧請縄

甲南町 牛飼 総社神社の勧請縄

神社に飾られる注連縄と似ているが、この注連縄に吊るされるのは呪物である。域内から追い出す意味合いで、藁や草で作った縄、人形、わらじなどを吊るす地域もある。

それならば、縄で魔除けをする習慣は中国から来たのかというと、そうではないと思う。

縄はどんな国でも境界を表す道具だからである。

もし中国から伝わってきたのなら、しめ縄と呼ばず、チュウレンという言葉が日本に残っているはずだ。

朝鮮には、日本の注連縄とそっくりなクムジュル(禁縄)、ウェンセキ(左縄)がある。

クムジュル

クムジュル

朝鮮ではクムジュル(禁縄)、ウェンセキ(左縄)などとよばれ、 主として中部以南地方にみられる習俗。通常の縄とは逆に左よりになわれ、紙や帛、枝葉などがつるされる。
家庭では子どもの出産後、3週間までのサムシンハルモニ(産神婆)をまつる期間に家の大門や戸口に張りめぐらされ、 男児の場合には唐辛子や木炭、女児の場合には紙、松葉、木炭などをつるして、 喪礼中の不浄な者の侵入を防ぎ、火と食物の持ち込み、持ち出しを禁じる。

解説を読めば、朝鮮半島の中部以南地方にみられるとあるので、日本の影響を強く受けているのであろう。

朝鮮半島の宗教といえば仏教と土着の宗教の巫俗(ふぞく)がある。しかし李氏朝鮮の時代では朱子学を尊重し、仏教は廃止されていったので、このクムジュル(禁縄)、ウェンセキ(左縄)も宗教的なものではなく、中国の影響であるまじないの類といえる。

また東南アジア一帯にもしめ縄に類する境界標示装置がみられるので、自然発生したのかも知れない。

結局、しめ縄はアジア中にある領域を示す装置だったのである。

そしてその材料は、稲わらであり、稲作としめ縄の関係がよく言われている。

という事は、中国大陸の東部、朝鮮半島はあまり関係ないのだ。

なぜならば、それらの地域は畑作が主だったからである。

中国の異なる地域出身の人々を比較した研究で、米国バージニア大学のトマス・タルヘルム(Thomas Talhelm)氏らのチームが、稲作地域出身の人々は小麦生産地域出身の人々に比べ、考え方が相互依存的で全体の和を重んじることを明らかにした。一方、小麦は他の農家と連携しなくとも栽培できるため、小麦農家は個人主義に傾く。 

朝鮮半島も南北がある。共に、そこを治めていた人種は時代ごとに変わっている。

朝鮮南部では稲作は、長い間、主に陸稲や水稲の直播栽培(水田への直まき)が行われ、田植えが広まったのは、李氏朝鮮後期になってからである。同じ稲でも、陸稲や水稲の直播栽培は一人で作業可能な農業方法なので、畑作とよく似ていると言えるだろう。

北部は亜寒帯から寒帯であり、当然稲作は無理なので、寒さに強い畑からの生産物が主となる。

詳しく言えば、紀元前の文明は不明で、3世紀頃には北部や東北部沿岸には満州族、夫余諸族、南部には複数の韓族が住み、西北部は漢や魏などの郡が置かれて移民の漢族も住んでいた。

ただ、時代が新しく、古い日本に影響を与えるほどの文明の存在は確認されていないのと、倭人が朝鮮半島南部に国を作っていたという可能性があるので、古代の文化の影響は、中国大陸北部の文化が、朝鮮半島の倭人経由で、九州や本州に影響を与えたと思われる。

次は中国だが、中国大陸と言っても広い。一括りに中国の宗教と言ってしまえば、間違った方向へ進んでいく場合が多い。

例えば中国大陸では黄河と長江という文化ラインがある。

黄河文明は中国史の中心軸になった文明である。畑作が中心で、よく知られている水滸伝の舞台でもある。

私達が中国を指す場合、この黄河文化を指す場合がほとんどである。

そして長江文明というのもある。

ここには複数の古代文明が発生している。文明の時期として紀元前14000年ごろから紀元前1000年頃までが範囲に入る。

長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。

さらに、この文明が、日本に影響があったとされている、後の楚・呉・越が建国されている。

また、謎の四川省広漢市の三星堆遺跡(さんせいたいいせき)もある。

三星堆遺跡の青銅縦目仮面

日本の縄文時代や弥生時代に影響を与えたとすれば、この地域しかないのである。しかし、この地域の文明の詳細は、現在でも不明な部分が多いので、残念ながら断定的な推理は不可能なのである。

しめ縄の起源が日本外からかも知れないという可能性を考えてみたのだが、結局、これと言った場所を確定できなかった。

縄自体は世界中に存在しており、自然発生的に作られた道具である。

そして、その目的は物を縛ったり、固定したりする目的で使ったのだ。

それは狩猟民族や農耕民族、海洋民族であろうが、生活に必要な道具なので、ツタや小麦のわら、稲のわら、ツル、木の皮、葉っぱなどで作られている。

縄による特別な文化は特に見当たらないのだが、しめ縄に関して、縄という文化が最初の出発点ということならば、それはやはり日本だと考えたほうが妥当だろう。

それは、日本には縄文という縄を使った模様を土器に多用していたからである。

縄文時代は、稲作の文化ではないが、縄を多用している。縄の材料はツタやシダなどの植物だが、日本では「麻」もよく使われている。最古とされる鳥浜遺跡の縄文時代の草創期の縄3点の原料は、大麻2、大麻様1とされている。

この麻は世界最古の繊維作物とされている。

人類による植物の栽培の早期から人類と共存してきており、縄文時代早期から前期の日本の9500-10500年前の複数の貝塚からアサの果実(実)が見つかっており、食用として栽培されたと言われている。

麻という植物には、吸水性がある、水に濡れることで強度が増す、光沢がある、引っ張りに強いなどの利点があり、日本での利用の考古学的証拠は約1万年前にさかのぼる事ができる。

さらに弥生時代の布はほとんどが麻製であったのだ。

 

整理してみよう。

縄は世界中にあるが、土器の文様に縄を使ったのは、日本の縄文時代である。

これは、縄が単なる道具ではなく、何かの象徴だったという可能性が見て取れる。

稲作が盛んになった弥生時代だが、この時代の衣類はほとんど麻であった。それだけ日本で普及していたのだ。

高温多湿の日本では、通気性の良さや、吸水性があり、水に強く、更に光沢がある麻は特に好まれていたと推測できる。

そして、神道が確立された時代から、この麻は、神道と深く結びついている。

神道で修祓(しゅはつ、祓い)に使う道具は、大麻(おおぬさ)といい、神社の神官の衣裳も麻であり、社殿前にある鈴のついた縄も麻、神社のしめ縄も麻製が本式だと言われている。

大麻 おはらい

これから導き出せる推論は、縄文時代の縄の精神性と、神道が確立されてからの縄では、違う意味合いがあるということだと思う。

「神道」という言葉は中国製

じつは「神道」という言葉は日本製ではない。

もともと中国で古くから使用された言葉であり、儒教の五経の一つ『易経』には「観天之神道、而四時不_、聖人以神道設教、而天下服矣」とある。

『後漢書』の西域伝によれば、インドからの仏法についての記述に「莫有典書、若無神道」とあり、また「西方有神、名曰仏」ともある。この場合の「神道」は「仏教」をさしているので、一般に宗教を示したわけである。

雑学の世界
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den092.htm

日本の神道には経典はないが、『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『宣命』あたりが神道の元になっているとされている。

という事であれば記紀が作られた時代、つまり飛鳥時代。

聖徳太子が活躍した時代に「神道」は確立されたといっていいだろう。

つまり、漢字を中国から輸入した際、日本の宗教という意味で「神道」という言葉をチョイスしたに過ぎなかったと思われる。

「神道」とは何かという問いは、私には答えられない難問であり正確さが極端にかけるが、今まであった日本の民俗信仰に、天孫という天皇家の歴史を混ぜ込んだものと考える。

神道という言葉には「神からの道」と「神への道」がある。日本はオリジナルの「神への道」を歩み完成したのだ。

縄と蛇

日本でよく言われるのが神社などの注連縄は、蛇の絡み合う姿からきているとの説がある。

確かに、神社の注連縄はあからさまに蛇に似せているものがある。

もし、注連縄が中国の輸入なら、中国の注連縄と蛇との関係はどうだろうか。

 

蛇は中国大陸でも信仰の対象となっている。

「伏羲 ふぎ」
古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王。兄妹または夫婦と目される。蛇身人首の姿で描かれる。現在の中国では、中華民族人文の始祖として崇拝されている。

「女禍」
古代中国神話に登場する土と縄で人類を創造したとされる女神。姿は蛇身人首と描写される。

伏羲と女禍

伏羲と女禍

中国の建国は蛇人間の夫婦から作られているといわれている。

強烈な蛇信仰である。

秦の始皇帝時代には、蛇から龍へと信仰は変貌を遂げている。

漢字を見れば、その変化がわかる。

龍と竜の部首はそのまま「龍」「竜」ですが、両方には同じ「立」が含まれています。
一方で蛇の部首は「虫」で、龍や竜とは明確に違うことがわかります。
また、「水き(まむし)」という蛇が1000年で龍になる前、500年でなる「蛟(みずち)」または「蛟龍(こうりゅう)」の「蛟」という漢字の部首はまだ「虫」なのです。

「虫」の部首は大地を這う生き物を表すもので、蛇とはまさに大地を這う生き物。
ヘビは古代には、「長虫」という虫の一種と考えられていました。また「まむし(蝮)」の語源は、「真虫」つまり真の虫ということから来ているそうです。

龍の読みは「りゅう/たつ」ですが、立も「りゅう/たつ」。
大地の這う「虫」の一種であった「蛇」から、「立」を得て空を飛ぶ「竜」「龍」へと進化する。

漢字の成り立ちから考察する、中国の龍の姿とヘビの関係性
http://fushigi-chikara.jp/sonota/6487/

それに比べて日本は中国ほどではない。

中国に太い注連縄はない。

細い縄を使い境界を示すだけである。

ということは、中国において「蛇」と「注連縄」の関連性はきわめて薄いだろう。

日本では注連縄は、蛇の化身として変化していった。

これは日本オリジナルだ。

 

蛇の信仰は、各民俗学者の人が多く述べている。

「日本は蛇の国」とも言い放っている。

有名なのは吉野裕子さんの「蛇 日本の蛇信仰」等の本がある。

「鏡餅」「かかし」の由来は蛇であるという話しだ。

ヘビの文化史/しめ縄も鏡餅も正体はヘビだった?

ヘビの文化史/しめ縄も鏡餅も正体はヘビだった?

http://rokujigen.blogspot.jp/2012/12/blog-post_31.html

注連縄が蛇の交尾といわれいてる姿

寮美千子 on Twitter

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韓国のしめなわと中国の注連縄、日本と違う点はその大きさと素材である。

そして飾る場所である。

日本には1万年もの長さを誇る縄文時代がある。

縄の紋とあるように、縄文の人達は縄をたくさん使っていた。

弥生時代には稲作が広がりワラが出来る。

日本の縄文時代では、稲も作られていたが、主要な食糧ではなかった。

弥生時代、急速に水田の稲作が広まっていくが、水田作りをしない縄文の人達も多くいた。

さらに気候のせいで東北には水田稲作が伝わらなかった。

だから東北には弥生時代という時代は無く「続縄文時代」とよんでいる。

という事は、縄の材料として使われている稲わらは日常的ではなかったということになる。

注連縄が稲作文化に大きく関わっているという解説は、日本一律ではなかったのだ。

さらに、伊勢神宮のお札、神社のしめ縄、横綱の綱などにはかならず大麻を使用している。

 

注連縄と紙垂(しで)の関係は、稲の生育に関係している「稲妻」がキーワードといわれているが、その関係はなかったのだ。

麻と稲妻の象徴のと紙垂(しで)とは、関係ないからである。

横綱と大麻
大麻は、日本人にとって神聖な作物であるが故に、神社では伊勢神宮のお札、神社のしめ縄、横綱の綱などにはかならず大麻を使用しています。
横綱(よこづな)は、大相撲の力士の格付け(番付)における最高位の称号である。語源的には、横綱だけが腰に締めることを許されている白麻製の綱の名称に由来する。

鳥居

神社の鳥居に飾られている蛇の注連縄は何を意味するのだろうか。

蛇と稲作が関係ないわけではない。

稲作が浸透していき、飛鳥時代「神道」が体系されていくと、神社は稲作のためにたてられたといってもいい。

よくいう豊穣祈願が神社の大切な仕事になっていくのだ。

 

日本は単一民族ではない。

私は縄文人と弥生人という人種がいたとは思わない。水田稲作に従事していた人達と、狩猟採集の山人、海人などのグループが混在していったと解釈している。

古代より「蛇」への信仰は強く生き続けている。

その証拠に、いろんな神社に蛇の注連縄がある。

古代からいる神々を守る神の蛇だろう。

奥沢神社

奥沢神社

熊野神社・所沢市西新井町

熊野神社・所沢市西新井町

佐賀県 金立神社

佐賀県 金立神社

鹿島八坂神社、老杉神社の蛇縄、乙戸の鹿島神社の鳥居の藁の蛇、奥の院・神蛇祠鳥居
霞神社、白水阿蘇神社 などが蛇型のしめ縄である。

日本では人間の力の及ばない「神(八百万の神)」を治め、その力を治める象徴として縄が用いられた。古くは『日本書紀』にもそのような記述があり、弘計天皇の項に「取結縄葛者」とあり葛縄が大変重要な建築資材であったことが記される。

そんな意味合いも縄にはあったのだろう。

 

注連縄には細房というのがついている。

注連縄に五穀豊穣の意味合いがあるとすれば、その房こそ稲の象徴であろう。

細房と紙垂(しで)が、稲作と雷の象徴だ。

しめ縄をひっくり返してみれば、一目瞭然である。

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そして、その稲作の土台には、太い縄が使われている。

蛇のもつ霊力の上に、農業が象徴されているのだ。

そして、この注連縄は農民から神社に寄進されたものなのである。

共存

日本古来の麻で作った蛇のしめなわ

麻は、縄文時代から生活に使われている大切なものだ。

そして細房と雷の紙垂(しで)は、水田稲作が始まってからの信仰でもある。

私には神社の注連縄は、古代の縄文時代とそれ以降の水田文化との共存を象徴しているように思える。

 

日本には神社がある。

神の社である。鳥居や神社の入口には太い注連縄を使う。この注連縄は、日本オリジナルの「蛇」が由来である。あの太い絡み合った注連縄は日本独自に発達していったのだ。

 

縄文時代では、縄は蛇の強い生命力を模して、土器の模様に使っていたのだろう。

蛇の模様に囲まれた土器に、祈りがあったのかも知れない。

縄文土器 蛇

そして、稲作が始まり神道が確立していく。

神道の時代に神に捧げるものとして、蛇の強靱な生命力と、怖さに敬意を込めて太い縄を作った。

これは、縄文時代から日本人に植え付けられた思いからであろう。

そして、その蛇を土台にして、稲作豊穣祈願のしめ縄を作り上げ、神社へ奉納する。

つまり稲作の民と、縄文の民は共存したのだった。

宗像神社

宗像神社

横綱がつけているまわしは王者の印である。大蛇をまとった最強の男は、神の力を具現しているのだ。

日本の注連縄は、稲作を行なっている人達と、狩猟民族である縄文の人達との合作である。

大陸から伝わった注連縄は縄張りを現わし、日本で育っていった注連縄は最強の蛇の守りを現わしている。

そしてそれはすべて注連縄と呼ぶ。

混じり合い、そして新しく作り上げる。

日本は不思議な国である。

出雲大社

出雲大社

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