歌川国芳スカイツリーの謎に挑戦
歌川国芳の「東都三ツ股の図」がある。
そこには、この時代に、あるはずのない高い塔が書かれている。
私も日本のオーパーツという内容で以前紹介したものである。
しかし、あまりにも不思議なので再度調べることにした。
まず歌川 国芳の素性である。
歌川 国芳(うたがわ くによし、寛政9年11月15日(1797年1月1日) - 文久元年3月5日(1861年4月14日))は、江戸時代末期の浮世絵師。
歌川を称し、狂歌の号に柳燕、隠号に一妙開程芳といった。江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人であり、画想の豊かさ、斬新なデザイン力、奇想天外なアイデア、確実なデッサン力を持ち、浮世絵の枠にとどまらない広範な魅力を持つ作品を多数生み出した。ウィキペディア
素顔はわからない。上記の絵に書かれている後ろ向きの人物が歌川 国芳だと言われている。
若干変わり者のようだが、アーティストとして、特に問題はない様である。
ちなみに風景版画で国際的に有名な歌川広重とは同年の生まれである。
歌川と名乗ったのは、初代歌川豊国の目にとまり15歳で入門したという。貧乏だったので月謝が払えず、すでに歌川派を代表していた兄弟子・歌川国直の家に居候し、彼の仕事を手伝いながら腕を磨く日々が続く。
1827年(30才)頃に発表した大判揃物『通俗水滸伝豪傑百八人』という『水滸伝』のシリーズが評判となり“武者絵の国芳”と称され、人気絵師の仲間入りを果たした。
苦労人のアーティストで、向上心の強さでのし上がってきた。若い頃に貧乏だった割にひねくれず、正義感の強い男だったようだ。
色んな分野で才能を開花させるのだが、老中・水野忠邦による天保の改革で質素倹約、風紀粛清の世間となってしまう。
それにより、人情本、艶本が取締りによって絶版処分になったり、浮世絵、役者絵や美人画が禁止になるなど、強力な弾圧を受ける。
なので江戸幕府の理不尽な弾圧を黙って見ていられない江戸っ子国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけた。
この絵は、表向きは土蜘蛛退治を描いているが、幕府の無策と駄目な侍たちを書いている。
幕府はそんな国芳を要注意人物と徹底的にマークした。
国芳は何度も奉行所に呼び出され、尋問を受け、時には罰金を取られたり、始末書を書かされたりした。
それでも国芳の筆は止まらず、禁令の網をかいくぐりながら、幕府を風刺する国芳に江戸の人々は喝采を浴びせた。
国芳自身がヒーローとなり、その人気は最高潮に達した。
画家として探究心が強い国芳は「西洋画は真の画なり。世は常にこれに倣わんと欲すれども得ず嘆息の至りなり」と語っている。
1856年(60才)初め頃に中風を患い、筆力が衰え1861年65才で亡くなった。
人気絵師なので記録も多く、不審な点は見られない。
今回の「東都三ツ股の図」の不思議さに戻る。
ネットでは、タイムスリップをして現代を観察し、また江戸時代に戻って活動したという風な言い方が多い。
噂の様に、本当にタイムスリップしたのかもしれない。しかし、現代では時間旅行は「SF」の範疇である。アインシュタインは時間は伸び縮みすることを証明してくれた。そして時間旅行も完全否定されていない。
そんな可能性を頭に入れながら、江戸時代のスカイツリーについて納得出来る説明を試みたい。
江戸時代のスカイツリー
ウェブには様々な解答が掲載されている。
一番支持されている説は、現実に江戸時代のその場所に建造物があったという説明だ。
国芳は「井戸掘りの櫓」という絵を実際に書いている。
あの塔は、井戸を掘るための櫓が現実にあったという説である。
しかし、その解説にも異議が出てくる。
高さである。
東都三ツ股の図の浮世絵に描かれている建物の高さは、井戸掘りの櫓の高さではなく、それよりもかなり高い。
しかし高さが正確かというと、結構目測で描かれているので、細かなことは考えなくてもいいのかもしれない。
画面の構成上、自然に高く描いたのかもしれないという、可能性は大である。
もう一つ反論があり、深川は海を埋め立てた地である。井戸を掘っても海水しか出てこないので、この地区では井戸は掘らなかったらしい。
だから本当に大規模な井戸掘り事業が行なわれたかという疑問である。
一理あるが、記録がない以上水掛け論となってしまう。
ネットの推理は、この時点で迷宮入りとなっている。
国芳という絵師
問題の絵は「東都名所」の一つで全部で10枚と言われている。
東都名所と題されているが、とても名所といえない場所も書いている。
絵にはひねりというか、新感覚の趣向が盛り込まれているようで、すべての絵に隠しテーマが存在するかも知れないと感じる。
「東都名所 両国の涼」
http://www.photo-make.jp/hm_2/kuniyoshi_kisou_2_1.html
この絵で一番不思議なのが、空間の時間表現である。一番手前は未だ明るい午後4時頃か、中景は花火を打ち上げる舟がいる夜景であるはずだが、反対に一番明るい、背景の山並みもくっきりと見える、何故明るくしたのだろうか。暗い上部の花火が水面を明るくしている事なのだろうか、不思議な浮世絵である
「東都名所 州崎初日の出」
州崎の朝明けである。芸者の2人は高台から見ながらどこかに行く様子だが、おそらく海辺であろう下には、大勢の人が日の出を喜んでいる。するとこれは正月元旦の風景かも知れない。光の描写は大胆である。
「東都名所 新吉原」
西洋絵画の影響を受けた陰影表現が、何気ない道端の風景に重要なアクセントをつけています。また、雲一つない空に巨大な月の光輪を描く斬新なアイディアが、澄み渡った夜の空気を見事に表現しています。国芳風景画の中の秀作です。
https://www.adachi-hanga.com/ukiyo-e/items/kuniyoshi004/
東都三ツ股の図の絵が描かれたのは「文政10年~天保2年頃」とのことで、人気が出始めた30歳前後の作品である。
絵の中には、現代的な劇画の手法が使われておりドラマチックであったり、暗闇を明るく描いたりと、発想は自由である。
現代の漫画と比べても、その表現は色あせしていないと思う。
隠された趣向
東都名所のシリーズは、名所と呼んでいいのかと思う場所が選ばれている。
これが第1の趣向だとおもう。
つまり、名所を見つけるのは絵師の力であるという思いがあったのだと思う。
次に絵の表現と構図である。
「東都名所 新吉原」では月の表現が新しく、「東都名所 州崎初日の出」では朝日の表現が劇画っぽい。時代の先端を行くのは俺だという気概があったのだろう。
次に風俗を織り込み、その時代を表現している。
『東都名所 佃島』では、スイカの食いかけや、ゴミ、空から降ってくる御札等も描かれている。
これは、きれいなだけが絵じゃないと言っているようにも思える。
ただの名所図でないことだけは確かである。
反骨の心 江戸城よりも高い建物を描く
この絵師国芳は、様々な反骨精神を発揮している。
●幕府の華麗な錦絵禁止のお達しにわざと下手な絵を描いてみせる
子供が壁にイタズラ書きをしたように、引っ掻いたような絵を出した。国芳のつけた画題は「むだ書」である。●国芳戯画『駒くらべ盤上太平棊』は、武士を将棋の駒を背負わせて合戦を書き、販売禁止となる。
●幕府の役人を皮肉って描く
「きたいなめい医」とは、江戸時代には珍しかった女医を示す『絵中に幕府の高官を描き、揶揄している』と言われ大評判になったと言われる。
これ以上にいろいろとある。
さて問題の「東都三ツ股の図」だが、風景を描く北斎・広重と差別化を図るため、雲の表現を独自に作り上げたという評価が多い。
そして、謎の塔である。
井戸堀の櫓と言われているが異常に高い。
なぜ高く描いたのかという理由だが、私は「反骨」精神ではないかと考える。
江戸時代の建物で一番高かったのは、江戸城の天守閣。
天守台を含めて60mといわれています。ただ1657年の明暦の大火で焼失いて以来、「軍用に益なく、ただ観望に備えるだけの天守再建はこの際無用」との四代将軍家綱の補佐役保科正之)の建言から、天守台のみが整備され、天守閣の再建は行われわれていません。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1096890870
さらに
町中では二階建て以上の建物は禁止。
芝居小屋や吉原などで、中には三階建ての建物がありましたが、「中二階」と称していました。
1649(慶安2)年に3階建が禁止され、その後、度々規制が強化され、享保の改革では、「家作り、なるべき成(棟高)はひきく(低く)建て」ることを市中に要請し、さらには1806(文化3)年には、棟高が2丈4尺(約7.2m)に制限されている。
こんな不文律が江戸にはあった。
これは禁止令ではなく、富を蓄積していた商人の贅沢を抑えることと、火事の火消しの際、屋根に登りやすくするための申し合わせみたいなものだったが、
自由な表現をすることが、絵師の使命であると考えていた国芳は、自分の描く風景に禁止事項がある事を不満に思っていたのだろう。
そこで井戸堀の櫓の塔を江戸城以上の高さに描いて、知らん顔をしたのではないだろうか。
あり得ない高さの塔を描いてみせる「国芳」一流の反骨精神のなせる技だったと思う。
国芳の予言 謎の番傘の番号
国芳は亡くなった年を番傘に書いている。なんとも謎めいている。
これもまた推測するのが難しい。
「東都御厩川岸之図」に描かれた貸傘に「千八百六十一番」と刻まれている。
西暦1861年は歌川国芳の亡くなった年と一致するのだ。
北斎を意識したシンメトリーの数字
番傘のルーツは現在の三越の前身である越後屋をはじめとした大店が、雨の日に店の名前と番号を記入した傘がルーツである。
越後屋では(1~1500番)の番号だと三越のホームページにある。
1500番とは数が多すぎるが、それもまた宣伝の戦略だったのだろう。
番傘が描かれている浮世絵は、葛飾北斎の絵本隅田川両岸一覧にある。
その番傘の番号は「千八百十番」である。
同じ画材を描いた「国芳」の番傘の番号は「千八百六十一番」
これはただの偶然ではないだろう。
弘化元年(1844年)国芳は葛飾北斎門人の大塚道菴の紹介により、北斎と出会っている。
その時、北斎は88歳、国芳は46歳である。
言うまでもなく北斎は浮世絵界の巨人であった。だが死を目前とした北斎老人(90歳で死亡)の制作意欲は落ちていなかった。
そんな鬼気迫る北斎に、国芳は身震いしたのではないかと想像できる。
そして、大作家である「北斎」を大いに意識したのではないかと思う。
例えば有名北斎漫画では巨大な幽霊を書いている。
国芳も負けてはいない。
ライバルと言うより、大天才を追いかける若き天才といった所か。
まずこんな関係があったと思えるのだ。
天才は天才を知る
「東都御厩川岸之図」に描かれている貸傘の番号「千八百十番」を国芳は見た時、ひらめくものがあったのだ。
これは適当に書いた数字ではなく、数字のシンメトリーを意識した番号だ。
そう確信したのだ。
そこで同じシンメトリーの数字を付け足した。
大作家「北斎」に対抗して、自分は数を足した数字を書いてみせた。
「北斎先生よ。小さな所まで手の混んだことをしてるんだな。
だが、俺はわかったよ。あんたの心がね。
神は細部に宿るって言いたかっただとね」
まあ、こんな事を言ったかどうかは不明だが、天才は天才を知るという事の証明だと思う。
(この言葉はドイツのモダニズム建築家ミース・ファンデル・ローエが標語として使っていた)
これは憶測である。
その数字の真意はわからない。
ただ、シンメトリーの数字は安定感があり、裏から見ても同じに見える。
デザイナーの要素をもつ「北斎」「国芳」が書込む数字とすれば、裏から見ても同じに見えるシンメトリーの数字を使う事は納得がいく。
これが私の推測である。