弥生人説に疑問あり!
もう何度もテーマにしているのだが、弥生人ってどんな人達のことをいうのだろう。
そして大陸から弥生人がやってきたという説は、いつから定説になったのだろうか。
普通考えると、大変な学説である。
日本国の尊厳を損ないかねない、大胆な説である。
弥生人渡来説
記憶にあるのは「騎馬民族征服王朝説-東洋史学者の江上波夫」だ。
この学説は戦後の日本古代史学界に波紋を広げたといわれている。
現在では否定されているが、その当時天皇朝鮮人説が盛んに言われていたと思う。
東京大学名誉教授 埴原和郎氏はかつて「100万人渡来説」を述べる。
「弥生時代初め(紀元前300年)から飛鳥時代末期(紀元700年)までの1000年間の渡来人の試算」
人類学者は出土人骨の分析から総じてこの見方に賛成で、
考古学者はこれまでの発掘結果からみて、北部九州においても西日本全体でも在来の住民を圧倒するような規模の渡来を想起させるような遺跡や遺物が全く報告されていないことを理由に、埴原を初めとする人類学者の見解に否定的である。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_08yayoijidai_no_toraijinn_no_kibo.html
ポイントは戦後ということだ。
日本人の歴史観からすれば、天皇家の存在をはずすことは出来ない。
天皇家は「万世一系」その祖先は天照大御神である。
天皇家の威光は、大和王朝成立から始まり、太平洋戦争で敗戦するまで続いていた。
この天皇絶対主義は、良くも悪くも思想統制の枠となっていたと思う。
しかし、敗戦になり民主主義となった時点で、大陸の渡来人という学説が主流になったような気がする。
進歩人と呼ばれる人々が、日の丸を極端に嫌ったのもこの時代からである。
私は国粋主義者でもなければ左翼でもない。
正しい推理を尊ぶ。
何が正しい答えなのかを知りたいだけである。
弥生人
弥生人(やよいじん)とは弥生時代の人々を指し、大陸から渡来し縄文人と交流して新文化を形成した人びと(大陸系弥生人)、縄文人が新文化を受け入れて弥生人となった人びと(縄文系弥生人)、そして両者の混血で生まれた人びと、およびその子孫たち(混血系弥生人)が含まれるとされている。ウィキペディア
ウィキペディアにも「大陸から渡来し縄文人と交流して新文化を形成した」と書いているが、どこの地域の人達が日本に乗り込んできたかは書いていない。
証拠もないのに結論だけが存在しているのだ。
もし弥生時代に渡来人がたくさんやってきたという説を考えれば
日本にやってくる人達は、ある程度という統一性のある集団でないと、一つの文化を作り上げることは難しいと考える。
弥生時代というのは紀元前8世紀からと学説にあるが、
中国大陸では周という国の時代から春秋時代と呼ばれる戦国時代に当たる。
その時代の人達が難民として日本にやってきたのなら
弥生王朝らしき形をとるのではないだろうか。
そして言葉も大陸系の言葉に染まってしまうはずである。
しかし、現実はそうなっていない。
何処か釈然としないのである。
弥生人は大陸からやってきたといわれているが、その候補として朝鮮半島、中国からが主である。
最近は、稲作のことを含めて江南地方という説が唱えられている。
それでは、弥生人というくらい大勢の人達が日本にやってきたのなら、もっと具体的な風俗や言葉が残っていてもいいんじゃないかと思う。
例えば朝鮮半島の朝鮮人の祖先が日本に大勢やってきたのなら、キムチ作りの伝統が残っている地域があったり、朝鮮語が強く残っている地域があったり等である。
しかし、日本中探してもそんな地域はない。
中国の長江文化の担い手が、海を渡ってたくさんやってきたという説もある。
それなら、遺伝子のグループに大きな偏りがあったり、中国の長江文化の影響が強くあったりということがあっても不思議ではない。
一般的に高床式の建物がその証拠という説も多いが、人がやってきたのか文化が伝わったのかという区別が付かない。
私は文化の伝来は確実にあったと思うのだが、人がごっそりやってきたという説に異論があるだけである。
大陸の渡来人はいたと思われるが、日本語の独自性などが損なわれるほどの影響はなかったという事である。
今の学説は、弥生人と呼ばれる人(大陸系の大集団)がやってきたと思うんだけど、どこから来たのかと言われるとはっきりわからないという事である。
結論が先にあって、その説明が曖昧なものが、学説として通用していいのだろうか。
弥生人は来なかった
はっきりいえば、大陸から弥生人という人達はやってこなかったというのが、一番事実に近いと言うことだと思う。
まったく来なかったといっているのではない。
一つの文化をもった時代を作るほどの大人数ではなかったということだ。
これは私だけが言っている説ではない。
各分野の人達がはっきりと言っている。
「弥生時代は渡来人が作り上げたと言うが、それは違う。発掘を長いことやっていると、縄文の力を、ひしひしと感じる」
DNA研究で「縄文人と弥生人」が分かってきた新潮社フォーサイト
http://www.huffingtonpost.jp/foresight/jomon-man-dna_b_7601964.html
弥生時代の稲作は、見かけは水田だけど、やってることは縄文時代と同じ雑駁農耕だった。
これは、全国の弥生遺跡に共通する特徴である。(文章の概略)
これは縄文時代の人達が、中国大陸の水田の方法を見よう見まねで行なっていたという感じである。稲のたどってきた道 静岡大学農学部助教授 佐藤洋一郎氏
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_all.html
骨格や生活様式が変化しているという反論がある。
これは気候の変化により水田稲作を取り入れた結果、縄文人に起こった身体の変化である。
固い食べ物を咀嚼することで鍛えられた縄文人の顎の形は、その後、稲作が広まり柔らかいものを常食するようになるにつれ、次第に影を潜めていくことになります。
現在、日本の総人口は江戸中期のほぼ5倍に達し、平均身長でも当時をはるかに上回りました。その背景に医療技術の進歩と栄養状態の向上があったことは言うまでもありません。
ほっそりした顎
江戸時代の大名家の人々の顔(骨)なんかを見てみると、こういった傾向は如実です。江戸の庶民と比べると、本当に同じ時代の人かと思うくらいに顔が細い。やっぱり軟らかいものばかり食べていたんでしょうね。
頭のかたちというのは、時代時代で結構変化しています。頭を上から見たときのかたちが前後に長く、左右に狭い楕円形になることを『長頭』と言いますが、歴史上このタイプが最も多いのは鎌倉時代ですね。
一般 社団法人 Jミルク
鎖国を続けていた日本が、開国した時日本人の生活様式は一変した。
同じ国の生活とは呼べないほど、劇的に変っていったのである。
それと同じ変化が、弥生時代と呼ばれる時期に起こったのではないだろうか。
狩猟採集といった時代から、水田稲作へ緩やかに変っていった時、栄養状態と集団生活により人口が爆発的に増加する。
当然だと思う。
戦後の団塊の世代である私は、人口爆発の世代である。
人口は生活環境によって大きく変化するのは当然だと思う。
米が主食になれば顔立ちは変っていく。江戸時代の殿様と同じだ。
私には、弥生時代に大陸から大勢の人たちがやってきて日本の文化を創ったという学説が突飛で奇異に感じられてしょうがないのだ。
日本の考古学はまだ日が浅い。
自由にものが言える時代になったのは、やはり戦後であろう。
もっともっと各分野の学者達の研究に期待したい。
真実は、もっと違うところから現れるような気がする。
http://hensuiryuu-taijyutu.seesaa.net/category/3894031-1.html
弥生人という幻想が、日本人とは何者なのかを見えなくしている。
日本人は縄文人であり、弥生式は縄文人が取り入れたものだ。
ちょうど、明治の文明開花、あるいは、戦後のアメリカ化のように。
とびついて消化して創造していく。
縄文人(日本人)は太古から変わっていないのです。
それを、身長や顔つきの変化をもって、いちいち明治人だとか昭和人と呼ぶのは間違い。
あなたの説に賛成です。本を書いてください。日本人のアイデンティティーを固めるうえで、重要なことですから。
そうしない限り、日本は前に勧めないとすら考えます。