長崎の前方後円墳 ひさご塚古墳
ひさご塚古墳の素材写真 アートワークスフリーフォト
http://freephoto.artworks-inter.net/hisago/kaisetu.html
国道沿いを走ると、道の駅彼杵の荘があり、その中にひさご塚古墳という前方後円墳がある。
車で移動していると、車窓に大きく見える古墳である。
現在は修復されて綺麗な形になっている。
全長58.8mの前方後円墳。
後円部径37.7m、高さ6.3m、前方部最大幅18.5m、高さ2.6m、2段築成で側面は葺石に覆れているという。埋葬施設として竪穴系の施設2基が確認されている。出土遺物は銅鏡や玉類、鉄製品など。5世紀前半の築造。
彼杵(そのき)という地名は、古くから残されている。
肥前国風土記に、景行(けいこう)天皇が『この国を具足玉国(そないだまのくに)《真珠玉が多くそろっている国》と名付けよ』ということから彼杵(そのき)になったとある。
具足(ぐそく)とは日本の甲冑や鎧・兜の別称なのだが、武具を具足と呼び始めたのが鎌倉時代以降である。
また具足(ぐそく)で三具足、五具足というと仏具の事を言い、具足玉国を(そないだまのくに)と呼ぶとあるのは、不思議である。
この彼杵(そのき)地名逸話の真意は何処にあるのだろうか。
本来、具足という文字は「十分に備わっている」という意味である。単純に真珠などの玉がたくさん取れる国という意味だったのかもしれない。
ひさご塚が造られた時期は5世紀始めごろといわれている。
前方後円墳は大和政権の影響の証といわれているが、果たしてそうだろうか。
また、前方後円墳が墓稜と言われているが、作られている方向がばらばらであり、墓といえない要素が多い。
しかし埋葬施設もあるので、墓でないとも言えない。これも又謎である。
長崎県には彼杵以外にも島原半島にも大きな前方後円墳がある。
時代が近いと言われているので、この時代に大村と島原、諫早付近に大きな国があったと言える。
大村付近は、土蜘蛛と呼ばれる一族が住んでいたとも言われているので、彼らが大和朝廷に屈服した証かもしれない。
今後、発掘研究が進めば、このひさご塚を作った豪族が分かるかもしれない。
楽しみである。
様々な謎を含んでいる彼杵のひさご塚である。
ひさご塚古墳(ひさごづかこふん)は、長崎県東彼杵郡東彼杵町にある古墳であり、形式は前方後円墳である。ひょうたん塚とも呼ばれる。1950年、県指定の文化財(史跡)となった。
東彼杵の歴史
ひさご塚は長崎県の代表的な「前方後円墳」で、長い年月の間に周辺が削られひょうたんの形をしているところから「ひさご塚」と呼ばれてきました。今から約1,500年前にこの地域を治めていた有力な豪族の墓で、地元では、神功皇后の三韓征伐の折り、武内宿禰(たけのうちのすくね)の配下として従軍した武将の墓であると言い伝えられています。
昭和25年4月、長崎県の史跡として指定され、過去2回の調査が行われ、その結果ひさご塚が造られた時期は5世紀始めごろで、当時の規模は全長58.8m、後円部の直径37.7m、前方部の幅18.5mあったことがわかりました。また、副葬品として鏡や鉄剣などが出土しました。
http://rekishi-higashisonogi.com/rekisi.html
道の駅彼杵の荘(みちのえき そのぎのしょう)とは、長崎県東彼杵郡東彼杵町にある国道205号の道の駅である。
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ひさご塚の隣りにある、彼杵の荘の道の駅は鯨が特産という事で、鯨の肉が売られている。
大村湾にも昔小型のクジラやイルカがいたのだが、それよりも五島付近で捕れたクジラがこの場所に、沢山水揚げされたとされている。
ひさご塚は上から見れば、クジラのようにも見える。
「もしかして、クジラの供養のために作られたのかもしれないな」と思ったりもする。
さあ、どうだろうか。