考古学界に反旗。稲作は縄文時代から(2)
「まぼろしの邪馬台国」と共に歩む(2)
ばかげた米の南朝鮮渡来説
「まぼろしの邪馬台国」では、「ばかげた米の南朝鮮渡来説」というタイトルで稲作のことが書かれている。
このタイトルは、宮崎康平氏が熱帯性のバナナ栽培事業の経験から考えついたらしい。
今だったら、稲作は中国の南から直接やってきたんではないかという説が主流になっているが、「まぼろしの邪馬台国」が刊行された時代は、稲作は朝鮮からやってきたと教科書にも書いている。
しかし、宮崎康平氏は華北や南朝鮮から稲がやって来た考えるのは、ばかげていると言い切っている。
更に、米が弥生時代のものであるということにも、強い疑問を持っていた。
それは、自分のバナナ栽培事業で、亜熱帯の植物である「稲」が北九州より寒い「華北や南朝鮮」で育つはずがないと知っていたからである。
普通人の視点
「まぼろしの邪馬台国」が面白いと感じたのは、宮崎康平氏の視点が、ごく日常の自分の体験等から出ている事だ。
縄文、弥生の延長が現代である。
状況は変わっているが、変わらない事も多い。
稲作が始まった議論にしても、学者の人たちが思いついたのが、弥生時代、水田稲作と稲を持って大勢の渡来人が日本にやってきたという説だった。
みんなは偉い学者の人たちが言う事だし、色んな資料を持ち出して説明をするのだから「そうなんだ」と、疑問も持たず信じ込んだ経緯がある。
そんな考古学者たちに正面きって挑んだのが、宮崎康平氏だったのである。
反論したのは宮崎氏だけではない。
津田 左右吉(つだ そうきち、1873年(明治6年)10月3日 - 1961年(昭和36年)12月4日)は、20世紀前半の日本史学者である。『日本書紀』『古事記』を史料批判の観点から研究したことで知られる。栄典は従三位勲一等瑞宝章、文化勲章。
偉い先生なのだが、神武天皇以前の神代史を研究の対象にし、史料批判を行った。
明治時代である。政府が黙っているわけはない。
その結果、津田と出版元の岩波茂雄は同年3月に「皇室の尊厳を冒涜した」として出版法(第26条)違反で起訴され、1942年(昭和17年)5月に禁錮3ヶ月、岩波は2ヶ月、ともに執行猶予2年の判決を受けた。
しかし、戦後日本は一変した。
あの騎馬民族渡来説や邪馬台国畿内説、古墳畿内発生説など混沌を様してきた。
いま、様々な民間の研究者たちが、考古学学会に吼え始めている。
その戦後の先鞭をきったのが、「まぼろしの邪馬台国」であると思う。
縄文時代の稲
例えば、宮崎県に多く自生している亜熱帯樹「アコウ」である。
誰かが持ってきたかはわからないが、亜熱帯樹が九州に根付いたのである。
稲だってそうだったのではないかと、自然に考えたのだ。
弥生時代に一気に稲作が広がったという考え方は間違いだと言い切っている。
事実、縄文時代の土器に、米の籾跡が発見されている。
さらにサツマイモさえ西南九州から関東に広まるのに300年かかったのに、水田稲作が弥生時代に一気に広がったと考えるには無理があると説いている。
1965年(昭和40年)の話しである。
今から約50年も前に言い切っていることに、私は衝撃を受けたのだ。
葦が使われていた水田稲作
更に水田の稲作はどんな形でおこなわれたかを書いている。
水田は現在、平地や山間部に作られているが、かなり大事業である。
初期の稲作は、海岸や河口部分からスタートしたのではないかと説いている。
初代の稲は、塩に強い「ソルトライス」であったらしい。
平地の少ない日本では、海の近くの自然の地形を利用しての水田は、塩に強い品種ではないと生育しない。
当然である。
ただし現在の稲は塩に弱く、塩害にあえば全滅してしまう。
日本中に広まった理由は、初期の水田は干潟や海の近くの平野でも生育した塩に強い稲でなければならないのだ。
さらに葦を堤防代わりに使い、干拓地らしきものをつくり、潮の満ち引きで、川の水位が変るのを利用しての水田に必要な水を確保していたという。
宮崎氏は「押潮灌漑法」と名づけている。
初期の稲作は用水路などの栽培環境が整備された水田では無く、自然地形を利用する形態で低湿地と隣接する微高地を利用していた。水稲作の日本への伝来は縄文時代後期にあたる紀元前11世紀ごろであるという説もある。ウィキペディア
このあたりから宮崎氏は有明海、そして大規模な干潟のある「諌早平野」を邪馬台国の形成の拠点においていたようである。
諌早平野は長崎県南東部,多良岳南麓から,西彼杵半島,島原半島の各地峡部に広がる平野。有明海,大村湾,橘湾に面し,主として本明川の形成した三角州と,有明海支湾の諫早湾岸の干拓地からなる長崎県最大の平野で,水田地帯。
葦の重要性
弥生時代は水田稲作で富が蓄積された結果、邪馬台国などの国が誕生したのである。
となれば、やはり大規模な水田が出来る地域に、邪馬台国はあったと考えていいと思う。
日本神話にある、日本の呼び方が
葦原中国(あしはらのなかつくに)、豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)と書かれている。
なぜ、葦という字が使われているかというと、日本の文化の発祥が湿地帯だったからだ。
しかし、川沿いにも葦は生えている。
葦が生えていればどこでもいいかというとそうではない。
水田と関係がなければならない。
豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)とわざわざ書いているのは
水田稲作に葦が使われていたからである。
葦の字を日本国名にわざわざ入れたのは、葦がなければ水田として成り立たなかったのだろう。
そうなってくればも宮崎氏の「押潮灌漑法」は理にかなっている。
潮の満ち引きが大きく、川の扇状地や三角州などのある地域が、弥生時代初期に栄えていた地域だと断定できる。
しかし、宮崎氏の指摘はここで止まっていない。
畑作の重要性
畑作も一つの文化だったと考えている。
縄文時代から行われていたのは、アワ(粟)、ヒエ(稗)の穀物の栽培である。
さらにオオムギ(大麦)も縄文時代後期から弥生時代に伝来した穀物である。
つまり、日本は米だけではないと言うことである。
水田稲作の大規模農法は、特定の地域に定住する事を意味している。
しかし、畑作は移動できるタイプの農耕である。
弥生時代には、水田を主とするグループと、移動性のある焼畑グループに分かれている。
この文化の違いが、様々な軋轢を生んだと宮崎氏は言う。
稲作の起源を探る
藤原宏志は「稲作の起源を探る」で
「宮崎県えびの市の桑田遺跡で縄文晩期の層からイネのプラントオパールが検出され、その形状解析から熱帯型ジャポニカである可能性が高いことがわかったのである。・・・・・
・・・水田稲作の伝来以前にイネが存在していたとすれば、やはり、焼畑など畑作系譜の稲作を想定する以外にないとわたしは思う。水田稲作にともなう栽培イネが温帯型ジャポニカであるのに対し、畑作系のイネは熱帯型ジャポニカが多く、しかもこれが縄文時代のイネに多い。」
と述べている。DNAが語る稲作文明
また佐藤洋一郎も「DNAが語る稲作文明」のなかで
「最近では、縄文土器の胎土から稲のプラントオパールが検出されているが、これも多くは熱帯ジャポニカの稲由来のものであると言われている。----ごく端的に表現するなら、温帯ジャポニカが水田稲作を代表とする集約的な稲作に支えられた稲。熱帯ジャポニカは焼畑を代表とする粗放な稲作に支えられた稲である。----熱帯ジャポニカは縄文時代に西日本に伝わり、粗放な稲作に支えられていたと考えられる。」
と、藤原も佐藤も縄文のイネは熱帯ジャポニカであったと述べている。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_02_01jyoumonn_ine_no_hinnsyu_to_kigenn.html
つまり、縄文時代から行っていた「熱帯ジャポニカ」と水田稲作の「熱帯ジャポニカ」の二つの文化があったはずなのである。
そしてその事を宮崎氏は、50年前にすでに述べていた事を付け加えたい。
くま農業
日本は平野が少ない。
水田が全国的に広がっていくといっても限りがある。
自然の地形を利用した水田地帯には限りがある。
そこで、川の上流を目指し、焼畑や小規模な水田を主体とする一族が、やはり各地へ広がっていく。
その農耕を宮崎氏は「くま農業」となづけている。
九州に隈(くま)の名前がつく地域が多い事に注目したのだ。
朝日新聞(2014/4/12付けの夕刊紙)に『九州になぜ多い「隈」』という記事が掲載されていた。
難読地名で名高い福岡の雑餉隈(ざっしょのくま)。ここが地元の俳優武田鉄矢さんが、テレビで言っていた。「福岡は隈(くま)が多い」。地図を広げると、ある、ある、「隈」のついた地名が・・・。
福岡には干隈、田隈、佐賀には早稲田大学と創設者で同県出身の大隈重信を合体させたかのような「早稲隈」なる地名も。民俗学者・柳田国男は「地名の研究」の中で「クマという語は、九州には無数にある」と書く。
隈の意味は、川が曲がったところ、すみの方、奥まったところという。
教授のひとりごと
http://blog.livedoor.jp/mineot/archives/52032993.html
この隈(くま)農業は、日本のもう一つの姿である。
この隈(くま)という言葉の意味を履き違えて、勇猛な熊、力の象徴として捉えてしまうと、とんでもない勘違いを起こす。
九州の熊襲や土蜘蛛も勘違いのひとつであるという。
この「くま」という読みに熊や蜘蛛を当てて表記したとたん、野蛮人という意味になってしまう。
くま農業と鉄
さらにこの時代「鉄」が注目されてくる。
水田族より「くま農業」族の方が鉄を必要とする。
「くま農業」をするには、鋸(のこぎり)や丈夫な斧、獣たちを捕獲する鏃など使用頻度は高いからである。
この事も重大だと思う。
鉄は「くま農業」族が発達させたといっていいだろう。
「まぼろしの邪馬台国」で書かれている事は、古代歴史への大きな問題提起なのだ。
それでも学会は黙殺し、逆に民間は受け入れ、大ベストセラーになった。
「まぼろしの邪馬台国」と共に歩む