島原の前方後円墳

諫早市から島原市に行く途中に守山大塚(もりやまおおつか)古墳がある。

守山大塚古墳の写真素材 アートワークスフリーフォト
http://freephoto.artworks-inter.net/moriyamaootuka/kaisetu.html


有名な諫早干拓堤防の入り口付近になる。

この場所に長崎県内最古級の前方後円墳がある。

行ってみると驚くと思うが古墳の上には、墓がたくさんたっている。

「まぼろしの邪馬台国」の著者宮崎康平氏がこの古墳を見つけたとされている。

守山大塚(もりやまおおつか)古墳

守山大塚(もりやまおおつか)古墳

この古墳の解説である。

[参考:11/12長崎新聞、11/12島原新聞、11/9雲仙市HP]
昭和41年には古田正隆氏らの調査によって隣接する円墳と周辺の遺跡から弥生時代末期の遺物などが出土。

平成2年、県教育委員会が測量調査を実施した際にも、四世紀の土器も見つかり、同古墳が古墳時代初期のものであることが判明した。


平成21年度に行われた古墳周囲の発掘調査により、古墳に葺石(ふきいし)が施されていたことや周りに周溝(しゅうこう)(堀)が巡ることが判明しました。また、出土した壺や甕の破片から、4世紀前半には古墳が作られていたこともわかりました。墳丘(ふんきゅう)の大きさも一回り大きくなることが予想され、80メートル前後の大きさと考えられます。

守山大塚古墳

守山大塚古墳 空撮


弥生時代末期と古墳時代初期が最初の解説であり、平成21年度の調査では4世紀前半となっている。

この違いは大きい。

学術調査の信憑性は、その時代の学説に左右されているのがわかる。

つまり、前方後円墳は奈良地方が最初で、その影響を受けて全国に普及したという学説に引きずられて、最初は古墳時代初期という発表がされている。

学術調査も鵜呑みに出来ない証明でもある。

前方後円墳

前方後円墳は一般的にヤマト王権の形式だといわれている。

そして現在優勢なのは、奈良地方で発生されたという意見である。


前方後円墳は九州にも多い。

特に北九州は古い発生の古墳群も多い。

だから、九州が古墳発祥の地であるという学説もある。


しかし調査でわかる年代が、前記に書いたとおり、主流と思われる学説にひきづられており、そんなに信用できない。

警察で採用されているDNA検査法などのような、精度の高い年代測定が出来るようになれば、日本の歴史は大きく変わっていくことは確信できる。


無視され続けている火の国

島原の守山大塚古墳は、地方の豪族の墓というのが学説のようである。

大村湾沿いの彼杵にも前方後円墳がある。ひさご塚古墳といい全長は51.8mである。


前方後円墳がヤマト王権の支配下にあるのなら、それなりの記録があってもいいと思われるが、そんな記録はない。いや発見されていない。


現在の学説を読めば、長崎の諫早、島原地域はまったく注目されていない。

しかし、原山ドルメンのような紀元前4世紀頃の日本最古最大の支石墓群が発見されたり、佐世保の福井洞窟のように旧石器時代の土器が発見されたりと、彼杵、雲仙、島原地区は古代より重要な地域といってもいい。

宮崎康平氏がいうような鉄のカーテンがあるようである。


四面宮

火の国と呼ばれた有明海沿岸は、調べれば調べるほど古代文明の匂いが強くなってくる。

雲仙の温泉神社の「四面宮」は、国生みの神話に出てくる筑紫島からきている。

四面宮は筑紫国魂神社(つくしくにたまじんじゃ)ともいわれている。

筑紫地方には筑紫国魂神社はない。

雲仙市だけにある。

そう考えれば筑紫島とは島原半島の事を指しているという推理も生まれてくる。


四面宮は雲仙市国見町神代にある。

国見、神代という地名も含みがあるように思える。


有明海文化圏

有明海文化圏は確実にある。

それは邪馬台国かもしれないし、ヤマトかもしれない。

「とんでも説」といわれようがかまわない。

雲仙市の守山大塚の前方後円墳は、大きな意味を持っているのだ。

西のはずれの島原だが、地図を横に見てみれば、九州の中心でもある。

島原の国見という地名だが、その場所に行ってみれば、なぜ国見という地名なのかがよくわかるのだ。

雲仙の高台に登れば、目の前は熊本である。

島原は有明海沿岸の地域をぐるりと見渡せるのだ。

島原半島

島原半島


取り留めのない文章になったが、島原の前方後円墳はそんな想像を現実の説に変える力を持っている。

今後の科学的発掘が進むことを期待する。

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