島原の平山古墳
平山古墳の写真素材 アートワークスフリーフォト
http://freephoto.artworks-inter.net/hirayamakofun/kaisetu.html
島原市の広域農道を行くと、有明町あたりで小さな標識が立っている。
それを見逃さず細い道を車で下っていくと、工事現場のように金網で囲った古墳がある。
金網の扉を開けて、木々のくもの巣を避けて奥に入っていくと、平山古墳がある。
汚い案内板にはこう書いている。
平山古墳は島原市内に残存する唯一の古墳で、墳丘は道路等で削平を受け部分的にしか残されていませんが円墳と考えられ、内部は横穴式石室の構造となっています。
遺物が出土したという記録はありませんが、石室の構造から6世紀後半(古墳時代後期)に築造されたものと推定されます。
埋葬部の平面は約2m四方の正方形で、床面から高さ1mくらいまで巨石を用いて囲んでいます。その上に40~50cm大の石を持ち送って積み、その上を1枚の大きな平石で塞いで天井石としています。島原市有明町湯江乙420-1島原市教育委員会 社会教育課
http://www.city.shimabara.lg.jp/rekishi/page2677.html
横穴式石室や横穴系墓室は、4世紀後半から北九州で造られ、それが九州全域に拡がり、東の方へ伝わった。ウィキペディア
この古墳の形式が実は大きな問題を含んでいる。
一般的には朝鮮半島の形式が日本の九州に伝わったとされている。
ウィキペディアでも、その形式が機内に伝わったと書いているが、こうなると九州に大きな勢力が存在していたことになる。
考古学の常識・定説
考古学の常識・定説では畿内の横穴式石室は、九州から伝播したものではなく、百済から直接伝わったものとされている。
そうしないと大和王権の成り立ちが根底から覆されてしまうからだ。
しかし、位置関係や古墳の時代を考えれば、九州から広がったと考えるのが当たり前である。
また、朝鮮半島の影響というのが、さも当然のように書かれているが、九州の横穴石室文化は独自性があるという意見の人も多い。
朝鮮上位の発想
またしても朝鮮半島が文化のルーツという考え方が根付いてしまっていると感じる。
その朝鮮上位の発想がなくならない限り、本当の姿が見えてこないではないだろうか。
中国という文化圏の影響は確かに大きいが、朝鮮半島の倭人たちの存在を認めるか、認めないのかで、すべてのことが変わってしまう。
日本が独自で一番だとは思わないが、朝鮮上位、渡来人の優れた文化などという考え方から生み出された、日本の考古学の常識は眉唾物である。